日々の記録

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バウドリーノ(下) (岩波文庫)ウンベルト・エーコの「バウドリーノ(下)」を読み終えました。

上巻でたびたび言及された、司祭ヨハネの王国。下巻ではついに、バウドリーノがその幻の王国を目指して旅立つことになります。それに先立ち、バウドリーノは実の父の死を見守ることになりました。その父が残した粗末な椀、それをバウドリーノは司祭ヨハネに献上するグラダーレにしたのでした。

そして養父であるフリードリヒと共に、バウドリーノは十字軍に加わり東方を目指して旅立ちました。その度の最中、フリードリヒは不思議な城で命を落とすことになりました。完全な密室だった部屋で、フリードリヒは謎の死を遂げたのです。

その真相もわからぬまま、その意思を受け継いだバウドリーノは12名の仲間と共に司祭ヨハネの王国を目指します。そこへ彼らを案内するはずだったゾシモスは、フリードリヒの死と時を同じくして、どこかに姿をくらましました。それと同時に、ヨハネの元に持参するはずだったグラダーレも消えてしまいました。

バウドリーノたちは、ゾシモスがフリードリヒを殺してグラダーレを持ち去ったと考え、ゾシモスが向かったであろう東方への旅を急ぐのでした。そして、このあたりから物語の雰囲気が一変します。それまでは実在する場所も踏まえた内容だったのが、バウドリーノたちの前に現れる不思議な土地や住人の登場で、一気にファンタジー小説のような不思議な世界が描かれます。

そしてプンダペッツィムに到着したバウドリーノたちは白フン族との戦いに備えたり、一角獣を連れた美しい女性ヒュパティアとバウドリーノとの出会いがありました。バウドリーノとヒュパティアには愛情が芽生え、2人の子供をヒュパティアは身ごもります。しかし、白フン族との戦いが本格的にはじまり、バウドリーノとヒュパティアは別れ別れになってしまうのでした。

そしてバウドリーノは、白フン族との戦いで混乱するプンダペッツィムから、元の世界を目指して帰還することになりました。ところが、その度の途中で彼らは犬頭人の捕虜となり、その地で奴隷として強制労働させられることになってしまいました。

そんな生活が長く続きましたが、バウドリーノたちは監視の隙を突いて、そこから脱出することに成功しました。そしてバウドリーノは、彼の話の聞き手であるニケタスのいるコンスタンティノープルへと到着したのでした。しかし、その時コンスタンティノープルは攻め滅ぼされようとしていました。

偽の聖遺物を作り上げて資金を得たバウドリーノたちは、混乱するコンスタンティノープルからの脱出を計画します。しかし、それが実行される前にバウドリーノの前に消えたグラダーレとフリードリヒの死の真相という問題が現れます。
その結果、バウドリーノはある人物を殺めることになるのでした。そして、そんなバウドリーノがニケタスを救ったのは、その事件が終わった後のことでした。

こうしてバウドリーノの長い物語は、ようやく語り手のニケタスのいる時代へとつながりました。ここで物語は、もう一転するのですが、これ以上はネタバレになるので書かずにおきます。(^^;

というわけで、バウドリーノの物語も完結です。読み始めた当初は、これだけ内容の濃そうな本を最後まで読み通せるか不安もありましたが、読み始めてみたらその内容の面白さに引き込まれました。バウドリーノの語った物語には、ほら話も数多く含まれているのですが、現実と嘘が交錯する不思議な世界が展開しているのも魅力的でした。
バウドリーノ(上) (岩波文庫)ウンベルト・エーコの「バウドリーノ(上)」を読み終えました。

ウンベルト・エーコの作品は「薔薇の名前」の頃から興味があったのですが、これまで読む機会がありませんでした。
それが今回、初めてエーコの作品に手を出せたのは、文庫という形で発売されていたからです。文庫サイズだと、気軽に持ち歩いて、ちょっとした空き時間に読むことができるのがいいですね。(^^)

物語は主人公のバウドリーノが、手に入れた羊皮紙に書かれていた文字を削って、自らの記録を残そうとしているところから始まります。それが彼独自の言葉で書かれた、彼自身の物語でした。ところが、その物語を彼は失ってしまうことになります。

そして舞台は、いきなり13世紀のコンスタンティノープル陥落へと飛びます。既に壮年になっていたバウドリーノは、そこでビザンツ帝国の書記官長をつとめた、ニケタス・コニアテスという人物を救いました。コンスタンティノープルで略奪が行われる中、バウドリーノの用意した隠れ家に潜んだニケタスに、バウドリーノは自分の奇妙な生涯を聞き、記録して欲しいと頼みます。

こうして物語は、バウドリーノの過去が語られつつ、時折それが語られている時代へと帰りを繰り返しながら進んでいきます。ここで面白いと思ったのは、バウドリーノがニケタスに状況を語るうちにも、彼らを取り巻く状況が刻々と変化している様子も描かれていることです。上巻の最初は、隠れ家に潜伏しているバウドリーノとニケタスでしたが、状況の変化によって、街からの脱出計画も進んでいるのです。

そしてバウドリーノは、ニケタスに自分の生い立ちから話し始めます。バウドリーノは、元々はイタリアの貧しい農民の息子でした。そんなバウドリーノの運命は、神聖ローマ皇帝フリードリヒと出会ったことで大きく変わります。フリードリヒはバウドリーノを気に入って、彼を自分の養子として迎え入れたのです。

そこからのバウドリーノの人生は、波瀾万丈です。イタリアの都市国家をすべて自分の支配下に置こうとするフリードリヒの戦いを目撃し、フリードリヒの新たな妻として迎えられたベアトリスに恋心を抱くようになり、その思いを振り切るようにパリに学びに出かけ、個性的な友人たちと知り合い、フリードリヒの権力を強化する後ろ盾として、はるか東方にある司祭ヨハネの王国をでっち上げます。

でっち上げた王国は、すぐには役に立ちませんでしたが、後年それが思いもかけない形でバウドリーノの運命に関わってくることになります。そして、その幻の王国への地図を持っていると言う修道士ゾシモスの裏切りと再会。そしてゾシモスの口車に乗せられて、バウドリーノたちは幻の王国への旅を計画します。

というところまでが、上巻での展開でした。史実とフィクションが交錯して、その上にバウドリーノの過去とコンスタンティノープルでの物語もあり、とても込み入った構成の物語です。しかし、小さなエピソードの1つ1つが面白くて、どんどん続きを読みたくなるような物語です。

このように複雑に織り上げられた物語が、最終的にどんな形を見せてくれるのか、とても楽しみです!(^^)
人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)新潮クレストの新刊、ジュリアン・バーンズの「人生の階段」を読み終えました。

この本は、まず表紙の真っ赤な気球が目にとまりました。カバーの紹介を読むと、愛する奥さんを亡くした作家の回想録らしいです。

ところが、第1部の「高さの罪」を読み始めると、そこで描かれているのは気球の歴史と気球から撮影された神瞰図のような写真についてでした。不思議に思いながら読み進めると、第2部の「地表で」は、第1部に登場した軍人バーナビーと女優ベルナールの恋物語が描かれます。第1部が歴史的な出来事を描いたものだったので、第2部も本当にあったことなのかと思ったら、こちらはバーンズの空想による小説だと「あとがき」を読んでようやく理解しました。

そして第3部「深さの喪失」で、バーンズの亡き妻への思いと、妻を失った後の様々な思索が語られていきます。
この3部を読んで、ようやく第1部と第2部とのつながりが見えてきました。妻と過ごした日々は、気球で天に昇っていたような幸福に包まれています。それがある日、妻の死という出来事により地上へと墜落してしまいます。

どのパートも、1つのまとまったストーリーというより、大きなストーリーの中から慎重に抜き取られたストーリーの断片で構成されている感じです。そのため人物の視点や時代、場所を自由に飛び回ります。読み始めた最初は、この構成に戸惑いましたが、読み進めるにつれて、こういった手法も面白いと思うようになりました。
第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)アゴタ・クリストフさんの「ふたりの証拠」の続編、「第三の嘘」を読み終えました。この3作目で、「悪童日記」から始まるシリーズが一応完結します。

前2作と同様、何が真実で何が偽りなのか、不安定に揺らめきながら物語は進みます。そして、最終的にすべての真相らしきものが明らかになります。・・・でも、この結末はちょっと不満かも。(^^;

ネタバレになるので作品の詳細には触れませんが、「ふたりの証拠」がリュカの物語なら、「第三の嘘」はクラウスの物語といえます。第1部と第2部の間に、ちょっとした仕掛けがあってその部分は面白かったのですが、最終的に明かされた真相が意外とありきたりで、ちょっと期待外れな感じでした。

この作品でも、現実と夢が交錯するような不思議な雰囲気は健在ですが、下手に種明かしをせず、どこまでも不思議な物語であって欲しかった気がしました。
ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)アゴタ・クリストフさんの「悪童日記」の続編、「ふたりの証拠」を読み終えました。

「悪童日記」のラストで、それまで常に一緒にいた"ぼくら"は、1人は小さな町に残り、もう1人は町を出て外の世界へと向かいました。前作では、登場人物の名前は不明でしたが、この作品では"ぼくら"の名前も明らかになります。

小さな町に残ったのは、リュカという少年です。1人になっても、リュカは祖母の家で今までと同様の暮らしを続けます。しかし、やがてそこにも変化が訪れます。実の父の子供をはらんでしまったヤスミーヌとの出会い。そして、ヤスミーヌの子供で障害のあるマティアスとの共同生活。しかしヤスミーヌは、やがてマティアスを残して、大きな町へと行ってしまいます。

そしてリュカは、小さな町にある図書館の司書クララとの出会います。彼女は発禁処分される本を密かに自宅に持ち帰り、読んでいます。クララにまとわりついたリュカは、やがてクララと関係を持つようになります。そしてクララの夫が、無実の罪で殺されたことを知ります。

前作でも"ぼくら"がノートや鉛筆を買いに出かけた本屋のヴィクトールは、リュカにお店を売って1冊の本を書き上げるために、故郷の姉と一緒に暮らし始めます。しかし、本を書くのに没頭できるはずのヴィクトールは、やがて破滅的な死を迎えることになります。

本屋に住むようになったリュカは、マティアスを学校へと通わせます。しかし学校では、マティアスは障害による醜さから、他の子供たちのいじめの対象となります。しかし、どんなに痛めつけられても、マティアスは学校に行くことをやめようとはしません。ところが、リュカの前に美しい少年が現れた時、リュカの心がその子に奪われたと思い込んだマティアスは自ら死を選びます。

そして、ここで唐突に物語の視点が変わります。小さな町から出て行ったもう1人の少年、クラウスが町に帰ってきたのです。しかし、クラウスが帰ってきた時、そこにリュカの姿はありませんでした。そればかりか、リュカが本当に実在したのか、本当はクラウスこそがリュカなのではないかという疑問が生まれます。

前作にも驚かされましたが、この作品にはさらに驚かされました。前作とは違い、この作品では、"ぼくら"に名前が与えられました。しかし、最後まで読み進むと、本当にリュカが存在したのか、リュカは実はクラウスの作り出した幻ではないかという疑問が生まれます。そして1人の人間が確かに実在するとはどういうことか、深く考えさせられました。
悪童日記 (ハヤカワepi文庫)アゴタ・クリストフさんの「悪童日記」を読み終えました。

戦争が激しくなり、双子の「ぼくら」は母方のお祖母さんの家で暮らすことになりました。お祖母さんは自分を見捨てるように去った娘が、双子を連れてきたことを喜びません。そればかりか、お祖母さんは自分の夫を毒殺した疑いがあり、同じ町に住む人々からは「魔女」と呼ばれていたのでした。

お祖母さんは、「ぼくら」に対して愛情を示しません。彼らが自分の言いつけどおり働かなければ、食べ物さえ与えません。閉鎖的な小さな町の中で、「ぼくら」は生き抜くためにさまざまな知恵を身につけていくことになるのでした。その様子が子供向けの物語のような語り口で、淡々と描かれていきます。

「ぼくら」の側にいるのは、どこか壊れてしまったような人たちばかりです。そして、戦争はさらに拡大して特定の人種の差別や虐殺が行われます。その様子も、「ぼくら」は淡々と書き留めます。やがて戦争は終わりますが、その後にやって来たのは、戦争の時と変わらぬ過酷な現実でした。

そして物語は、双子の1人が別の世界へと旅立つところで終わります。それまでずっと一緒だった双子が、分かれて生きることを決意したのはなぜなのか。余韻はあるけれど、不思議な物語の結末でした。
この物語には、2冊の続編があるようなので、そこで理由が明かされることになるのでしょうか!?

作品の雰囲気は童話的ですが、そこで描かれているのはとても残酷です。双子と東欧が舞台らしい物語ということで、浦沢直樹さんの漫画「MONSTER」を思い出しました。

読んでいて1つだけ気になったのは、作中に翻訳者の余計な訳注が数多く入っていることでした。こういった読み解きは、読者それぞれが行えばいいことで、訳注として本文に埋め込む意味はないと思いました。
著者があえて、国名などを具体的に示さないことで描いたことを、台無しにしてしまっていると思いました。
ボート (新潮クレスト・ブックス)ナム・リーさんの「ボート」を読み終えました。

この本には、7作の短編が収録されています。しかし、その1つ1つが個性的で、複数の作家が書いた作品を集めた本なのではないかと何度も思いました。そして物語の舞台も、北米、オーストラリア、南米、中東、日本、東南アジアと多彩です。

「愛と名誉と憐れみと誇りと同情と犠牲」は、ベトナム移民で作家志望の青年とその父の物語です。主人公の青年は、作品を書きあぐねていました。彼の出自を知る人は、それをテーマに作品を書けばいいといいます。しかし、彼はそうすることに抵抗を感じていました。彼は父ほどに深く、ベトナムとのつながりを実感できないでいたのです。

そこに、彼の父がやって来ました。その時、彼は書きあぐねた末に、ベトナムを扱った作品を書き上げました。彼の父はその作品を手に、街へと出向くと、浮浪者が暖を取っていたたき火に、その作品を投げ込むのでした。
短い作品ですが、故郷を知らない青年と、異郷にあっても故郷を背負っている父の、深い断絶が印象的でした。

「カルタヘナ」は、コロンビアで暗殺者となった少年を描いた作品です。前の作品とは完全に雰囲気が変わり、ハードボイルドなサスペンス小説を読んでいるような感じでした。7作の中では、この作品が一番読みやすいと思いました。

「エリーゼに会う」は、痔を患う老画家が、妻と一緒に家を出た娘と再会しようとする物語です。老画家のダメっぷりが、これでもかとばかりに描かれているのですが、サイケデリックな雰囲気もあるブラックな作品でした。

「ハーフリード湾」は、オーストラリアに住む少年が主人公のお話です。彼の活躍によって、彼の学校は久々にフットボールの決勝戦に進むことができたのです。彼は一躍注目の的となり、憧れていた女の子も彼に声をかけてきます。ところが、その女の子は、悪評が高く凶暴な同級生と付き合っているという噂が・・・。

その一方で、少年の家庭事情も描かれます。彼の母は、多発性硬化症という難病に冒されていたのです。母の治療のため、父は今の家を売り、よりよい治療が受けられる場所への移住を考えていました。
同級生からの暴力の恐怖、難病の母を抱えた不安定な生活。物語は淡々と語れていきますが、この2つがあることで緊張感が維持されています。

「ヒロシマ」は、なんと原爆投下前の広島を舞台にした作品です。主人公の女の子は、戦災を避けて疎開していますが、彼女の父母と姉は、今も広島に暮らしています。主人公の女の子も、そしてそれ以上にお姉さんも、徹底的に軍国主義に染まっています。著者名を伏せてこの作品を読んだら、海外の作家が書いたものとは思わなかったかも。

「テヘラン・コーリング」は、付き合っている男から逃げるために、テヘランの友人の元に訪れるアメリカ人女性の物語です。そこで彼女は(そしてたぶん読者も)、これまで知らなかった自分たちとは全く異質なイスラム文化と対面することになります。

表題作である「ボート」は、ベトナムから脱出する難民ボートに乗り込んだ女の子の物語です。小さなボートに詰め込まれるように乗り込んだ、多くの人々。エンジンも停止し、ボートは海上を漂い、その渦中で1人また1人と命を落としていく人がいます。これは今もまだ、世界のどこかで現実に起きているかもしれないこと。そう気づいた時、今の自分がどれほど豊かでふやけた世界にいるかを思い知らされました。

著者のこの他の作品は、邦訳が出ていないようですが、ぜひ他の作品も出版して欲しいと思いました。
幻滅 ― メディア戦記 上 (バルザック「人間喜劇」セレクション <第4巻>)先に読んだ「読んでいない本について堂々と語る方法」で紹介されていた、バルザックの人間喜劇と呼ばれる作品群の1つ、「幻滅 - メディア戦記 - (上)」を読み終えました。

物語はフランスの片田舎、アングレームと呼ばれる町から始まります。アングレームは貴族が住む高台と、平民が住む下町からなっています。その2つは、互いに反目していましたが、アングレームの中心人物であるバルジュトン夫人は、貧しい平民であるリュシアンという青年を寵愛していたのでした。

リュシアンは、美貌と才能に恵まれた青年でした。バルジュトン夫人と関係ができたことを機会に、大物になってやろうという野心もあります。そんなリュシアンの美貌と才能は、田舎で暇をもてあましていたバルジュトン夫人にとって、格好の気晴らしになっていたのでした。

しかし、2人の関係を妬む者がいました。かってパリで名をはせたこともあるデュ・シャトレという男です。デュ・シャトレは表面上はリュシアンやバルジュトン夫人に協力する風を装いつつ、その実は彼らを利用して自分が再び表舞台に返り咲こうとしていたのでした。

そんなデュ・シャトレの企みにはまり、バルジュトン夫人はアングレームに居づらい状況に追い込まれました。ほとぼりを冷ますため、バルジュトン夫人はパリへと向かうことにしました。そしてリュシアンにも、それに同行するように求めたのでした。リュシアンは妹の夫となった友人・ダヴィッドの協力を得て、バルジュトン夫人と共にパリへと赴きます。

そこでリュシアンを待っていたのは、思いもかけない上流階級の底意地の悪さでした。デュ・シャトレの巧みな策略にはまり、リュシアンはパリでバルジュトン夫人に愛想を尽かされて、路頭に迷うことになるのでした。それでも自分の才能を信じるリュシアンは、持参した原稿を出版してもらおうとします。しかし、ここでも厳しい現実がリュシアンを待っていました。

内容的にどんなに優れた本であっても、出版業者は名もなき新人の本を出版する危険を冒そうとはしなかったのです。
追い詰められたリュシアンを救ったのは、貧しいながら高い志を持つセナークルと呼ばれる仲間たちでした。彼らの励ましとアドバイスを受けて、リュシアンは自分の作品と才能にさらに磨きをかけるのでした。

しかし、リュシアンがどれだけ勉強しても、生活の苦労は常につきまといます。そこでリュシアンは、ジャーナリストになって身を立てようとします。セナークルの仲間は、それはリュシアンを堕落させることだと反対しますが、リュシアンは知人のルストーを頼り、新聞に劇評を書くことになったのでした。

今までにない斬新なリュシアンの劇評は、パリで大いに話題になりました。さらに劇に出演している若手女優コラリーの支援もあり、リュシアンはこれまでとは全く異なる、晴れやかな舞台に立つことになるのでした。

その過程でリュシアンは、新聞などのメディアの本質を知ることになりました。彼らは真実を伝えようとしているのではなく、自分たちの思惑を読者に吹き込むだけの存在だったのです。内容的にどれほど素晴らしい本も、彼らの利害と一致しなければ酷評されることになります。逆に彼らの利益のためには、特にみるべき点のない作品も好評で迎えられることになるのでした。

上巻では、アングレームから出てきたリュシアンが、メディアという様々な思惑の渦巻く坩堝に飛び込むまでが描かれました。一癖も二癖もある人たちを相手に、リュシアンは自らの野望を果たすことができるのでしょうか。

読み始めた最初は、現代の小説とは違う文体に少し戸惑いましたが、しばらく読み進めたらバルザック流の語りにも慣れました。
この語り口は、昔どこかで読んだことがあるようなと思ったら、「三銃士」や「モンテクリスト伯」で有名なアレクサンドル・デュマの作品でした。2人の活躍した時期が重なっているようなので、1830年〜1850年くらいのフランスでは、こういった文体が一般的だったのかもしれませんね。
三文オペラ手塚治虫さんの「七色インコ」のおかげで、タイトルを覚えていたブレヒトの「三文オペラ」を読み終えました。

大勢のギャングを率いているメッキは、乞食同友会の社長であるピーチャムの娘ポリーを誘惑して結婚式を挙げてしまいました。乞食同友会というのは、多くの乞食たちを管理する団体です。特定の地区に乞食が集中しないように、それぞれに担当区域を割り振ったり、より哀れみを誘うための衣装を貸し出し、その見返りとして稼ぎの何割かを徴収しています。

ケチなピーチャムは、娘を金持ちに嫁がせようと考えていました。それが娘が勝手にメッキに熱を上げてしまったので、腹を立てています。しかもメッキは、本気でポリーのことを愛しているわけではなく、複数の女性と関係を持っていたのでした。

ギャングとしても荒稼ぎしているメッキですが、なぜか警察には逮捕されません。それは警視総監であるブラウンが、メッキの昔からの友人だからでした。メッキが罪を犯しても、ブラウンがそれを握りつぶしていたのでした。その見返りに、メッキは稼ぎの一部をブラウンに渡していたのでした。

メッキと警視総監が友人であることを知っても、ピーチャムの怒りはおさまりません。そこでメッキの娼婦の1人を買収して協力者にして、ついにメッキを逮捕させたのでした。しかしメッキは、別の愛人の力を借りて牢獄から逃げ出してしまうのでした。

すぐに遠くに逃亡すればいいのに、またしてもメッキは別の愛人のところに転がり込みます。それを知ったピーチャムは、女王の戴冠式を乞食を動員して妨害するとブラウンを脅して、再びメッキを逮捕させるのでした。そしてついに、メッキの処刑が行われようとしています。

さすがのメッキも、今度ばかりは腹をくくります。いよいよ処刑が始まるという時、騒動を知った女王からメッキに恩赦を与えるようにという命令が届きます。そればかりか、城や年金まで与えて、その後の生活まで保障してくれるのでした。現実には起きそうもないことが起きる、三文オペラゆえの結末でした。

実際に舞台で演じられることを想定して翻訳されているので、セリフのテンポが良くてとても読みやすかったです。
物語の合間に入る、いろいろな歌も楽しいですね。ただ本では、どんなメロディーで歌われるかまではわからないので、実際の歌を聴いてみたくなりました。

物語の内容としては、数少ない富者が多くの利益を独占して多くの貧者が生まれている、という現代にも通じるものでした。貧者の中にも、ピーチャムのようにさらに貧者が利用される構造が出来上がってしまうのが、さらに悲惨ですね。
ヘルマン・ヘッセ全集 (13) 荒野の狼・東方への旅「荒野の狼」と共に、ヘルマン・ヘッセ全集13巻に収録されていた「東方への旅」を読み終えました。

物語の主人公は、H.Hというイニシャルを持つ男です。彼はかって、とある結社へと所属していました。結社の中からメンバーを選りすぐり、東方への旅が行われることになりました。しかし、その旅は途中で頓挫してしまい、H.Hが所属していた結社も瓦解してしまいました。

H.Hは、そんな結社のことを記録に残そうと思い立ちました。結社には様々な禁則事項がありましたので、それに触れない形で記録はまとめ上げる必要がありました。そして結社の行った東方への旅が、なぜ失敗してしまったのかが語られていきます。

失敗の最大の原因は、彼らに従者として同行したレーオの失踪から始まっていました。レーオがいなくなった時、結社のメンバーは必死でレーオを探しました。しかし、どうしてもレーオを発見することができず、数々の口論を繰り返したあげく、集団は瓦解してしまったのでした。

ところが、ある友人の助言によって、H.Hはレーオを発見することになります。そして、これまで彼が真実だと思っていたことこそが、彼自身が作り上げた妄想だということが明らかになるのでした。

物語の後半で、それまでH.Hが語ってきた事実が反転する展開が面白かったです。
この作品も「荒野の狼」と同じく、主人公は著者の分身ともいえる存在です。著者以外にも、著者の友人や物語の登場人物が作中に顔を出していて(「知と愛」のゴルトムントなども登場します)、ヘッセの作品を読んでいるほど楽しめる作品だと思いました。(^^)
ヘルマン・ヘッセ全集 (13) 荒野の狼・東方への旅ヘッセの「荒野の狼」を読み終えました。

この作品は、学生時代に読んで衝撃を受けました。その時は新潮文庫の高橋健二さんの翻訳を読みましたが、今回は臨川書店のヘルマン・ヘッセ全集13巻に収録されている里村和秋さんの翻訳されたものを読みました。

臨川書店のヘッセ全集は、複数の翻訳者が担当しているため、巻によって当たり外れが大きい印象がありますが、里村さんの翻訳は現代的で読みやすかったです。

主人公のハリーは、高い教養を持ちながら、市民生活との折り合いが悪く、孤独な生き方をしている男です。
物語は、ハリーと多少親しくした男性=編集人による、ハリーという人物の観察。ハリーの書いた、「荒野の狼」についての論文。そしてメインとなる、ハリーが残した手記から構成されています。

編集人によるハリーの描写は、第三者の視点からハリーが描かれます。ハリーの論文ではハリー自身により、自己分析が行われます。最後の手記が一番長いのですが、最初はハリーの日常が描かれていますが、ヘルミーネという女性と出会ってからは、日常と幻想が交錯したような不思議な雰囲気が漂い始めます。終盤の仮面舞踏会と魔法劇場の描写は、サイケデリックの先駆けのような気がしました。

昔読んだ時、この作品の何に惹かれたのか考えてみると、「死に憧れながらも、自殺する勇気はない」ハリーに共感していたんだと思います。世間と上手く折り合おうと思いながらも、世間の軽薄さは嫌悪せずにはいられない。そんなハリーの心情は、この本を読んだ時の自分自身の心情と重なるものがありました。

今回もハリーに共感しつつ読み進みましたが、以前よりはもう少し客観的に物語を見ることができたように思います。
主人公のハリーは、著者であるヘッセの分身ともいえる存在ですが、彼を変えようとするヘルミーネという存在も、ヘッセ自身の別の一面だと思いました。

作中のハリーの手記にもありますが、人間は確固とした揺るがない存在ではなく、様々な面の重なり合いで常に揺らいでいます。ある状況である一面が強調されることはあっても、それがその人の本質というわけではなく、その時に強調された一面でしかない。

この作品は、そんなヘッセの様々な部分の集合体(でも、全てではない)なんだなあと思いました。
誰もいないホテルで (新潮クレスト・ブックス)新潮クレストから発売された、スイス人作家ペーター・シュタムの「誰もいないホテルで」を読み終えました。

この本には、10作の短編が収録されています。本のタイトルにもなっている「誰もいないホテルで」、「自然の成りゆき」、「主の食卓」、「森にて」、「氷の月」、「眠り聖人の祝日」、「最後のロマン派」、「スーツケース」、「スウィート・ドリームズ」、「コニー・アイランド」の10作です。

原題は、ほとんどの物語の舞台となっている、ボーデン湖畔にあるゼーリュッケンという丘陵地帯の地名だそうです。
日本人にはその名は馴染みがないので、1作目の「誰もいないホテルで」(これも原題は、ゴーリキーの戯曲にちなんで「夏の客」というタイトルだそうですが)が、本のタイトルに選ばれたそうです。
「誰もいないホテルで」というタイトルは、そこから想像がいろいろと広がる、とてもいいタイトルだと思います。(^^)

どの作品も適度な長さで(最後の「コニー・アイランド」だけは3ページほどと短くて驚きましたが^^;)、サクサクと読み進むことができました。様々な視点から物語が語られていますが、その核となっているは”孤独"のような気がしました。家族や友人、知人といる時、人混みの中にいる時でも、人はふいに孤独を感じることがあります。この短編集を読んでいると、その時の孤独感に通じるものが感じられるような気がしました。

収録されている作品の中では、アナという不思議な女性が登場する「誰もいないホテルで」、家庭崩壊した家から逃げ出し森で生活したことがあるアーニャの物語「森にて」、1人で有機野菜を栽培している農夫の物語「眠り聖人の祝日」、物語で描かれる人物と物語を描く作家が交錯した不思議な余韻のある「スウィート・ドリームズ」が好みでした。
完訳 ハックルベリ・フィンの冒険―マーク・トウェイン・コレクション〈1〉 (ちくま文庫)マーク・トウェインの「ハックルベリ・フィンの冒険」を読み終えました。

池澤夏樹さんの「世界文学を読みほどく」を読んだことがきっかけで、ついにマーク・トウェインの「ハックルベリ・フィンの冒険」を読むことができました。池澤さんが紹介されていた本が、加島祥造さんの翻訳によるものだったことも、読み切ることができた大きな理由でした。

物語は、「トム・ソーヤーの冒険」の後日談として始まります。トム・ソーヤーとの冒険で大金を手に入れたハックでしたが、大酒飲みで暴力を振るう父親から虐待される生活は続いていました。そんな父から逃れるために、ハックは自分が死んだように装って、ミシシッピー川を下る冒険へと出かけることになるのでした。

ところが、その途中でハックは知り合いの黒人奴隷ジムと出会いました。ジムは家族と離ればなれにされて、他に売り飛ばされるのが嫌で逃げ出してきたのです。そんなジムと一緒に、ハックは川を下る旅を続けることになりました。最初はカヌーで旅していたハックですが、途中で大きな筏を見つけてそれに乗って冒険を続けることになりました。

この時代、南部では黒人奴隷の売買が当然のように行われていました。しかしジムと旅する中で、ハックはジムの優れた人間性に気づいていくことになります。その当時黒人が自由になれるのは北部だけでした。しかし、ハックたちの筏は南へ南へと進んでいます。果たしてジムは、自由の身になれるのか、それが物語を読み進める力になりました。

ところが、途中から物語はおかしな方向に進み始めます。ハックとジムの旅に、詐欺師の王様と公爵が加わると、物語がそれまでのように面白くなくなりました。さらにハックが、トムの伯母の家へとたどり着き、そこでトムと再会すると、物語は決定的につまらなくなりました。

せっかくここまで読んだからと、何とか最後まで読み通しましたが、この物語が最初から最後までハックとジムの冒険物語だったらと思わずにはいられませんでした。「あとがき」を読むと、ヘミングウェイもこの本の31章以降はごまかしだと言っていたそうですから、後半がつまらないと思うのは私だけはなさそうです。(^^;
知と愛 (新潮文庫)ヘッセの「知と愛」を読み終えました。学生時代にも読んでいるので、今回が二度目の読書になります。

原題は「ナルチスとゴルトムント」です。精神の道を追求するナルチスと、芸術の道を突き進むゴルトムントの2人を主人公とする物語に、翻訳者の高橋健二さんは「知と愛」という、それぞれを象徴するタイトルをつけられました。
翻訳が機械的に言葉を自国語に置き換えるものでなく、翻訳者という人間を通して行われるものだからこそ、翻訳者が原文から読み取った作者の精神を、その時代の自国の読み手によりわかりやすい言葉で伝えることは、意義のある改編だと思います。

物語は、精神の人として生きるべく、ゴルトムントがマリアブロン修道院へと送り込まれたところから始まります。そこでゴルトムントは彼の導き手となる若い師・ナルチスと出会います。2人は、やがて友情という深い絆で結ばれることになりました。

そしてナルチスは、ゴルトムントが精神の道を追求する人間ではなく、芸術の道を進むべき人間であることに気づかせました。自分の本性を見つけたゴルトムントは、修道院を抜け出して放浪の旅に出ることになるのでした。各地で様々な女性と愛し合い、様々な死の目撃者となったゴルトムントは、やがて彫刻という表現手段を獲得しました。

彫刻の親方にも認められる腕前になったゴルトムントでしたが、彼の中にある放浪への強い衝動は、1つの街にとどまって生きることを望みません。再び旅に出たゴルトムントは、ペストによる悲惨な死、そしてついに投獄されて彼自身の身にも死が迫ります。

そんなゴルトムントを救ったのは、放浪中も忘れることなく思い続けた友人ナルチスでした。ナルチスは精神の道を進み、かって2人が出会ったマリアブロン修道院の院長となっていたのです。芸術家として、創作する場所を求めていたゴルトムントに、ナルチスは修道院の一角に彼のための場所を用意してくれました。こうしてゴルトムントは、ナルチスの元で素晴らしい作品を作り上げるのでした。

しかし、1つの作品を作り上げた後、またもゴルトムントは放浪を激しく渇望するようになります。既に彼は、かっての若さや力を失っていました。しかし、彼は出かけずにはいられませんでした。こうして再び、ゴルトムントはナルチスの前から去りました。

次にナルチスとゴルトムントが再会した時、ゴルトムントは老いて病み、死を間近にしていました。そんな中にありながらも、ゴルトムントの心は平静でした。こうしてゴルトムントは、ナルチスに看取られながら息を引き取ります。
このラストシーンは、静謐で美しく心に染みいるようでした。

ヘッセ自身が芸術家ですので、物語の重心が芸術家=ゴルトムントに置かれるのは必然ともいえます。学生時代に読んだ時は、そんなゴルトムント中心の物語を楽しみました。しかし、今回は同じようにゴルトムントの物語を楽しみつつも、その間にナルチスがどんな生き方をしていたのか知りたいと、強く思いました。
鳥たちが聞いているバリー・ロペスの「鳥たちが聞いている」を読み終えました。

この本は、池澤夏樹さんが紹介されているのを読んで知りました。読んでいると自然と向き合っているような気持ちになり、ちょっと不思議や幻想性さえ感じられる12編の短編が収録されていました。

表題作の「鳥たちが聞いている」から始まり、「ティールの川」「エンパイラのタペストリー」「空き地」「ある会話」「ピアリーランド」「台所の黒人」「ウィディーマの願い」「我が家へ」「ソノーラ 砂漠の響き」「クズリの教え」「ランナー」と続きます。

どの作品も自然との関わりが感じられるますが、個人的に気に入ったのは「ウィディーマの願い」と「我が家へ」でした。「ウィディーマの願い」では、未開の狩猟部族を研究しようとした青年が、ウィディーマ族と出会い世界に対する認識を新たにするお話です。「我が家へ」は、1つの論文をきっかけに有名な研究者となった青年が、自分の研究よりも大切な身近な自然に気づくお話です。

「ウィディーマの願い」を読み終えた後は、特定の文化や知識・思想に絶対的な価値はなく、どんな人間も自然の中にただあるだけなのだと思い知らされた気がしました。「我が家へ」を読んだ後は、自分の身近なものをしっかりと知ることが、平穏さや生きる喜びにつながっているのかもしれないと思いました。
停電の夜に (新潮文庫)ジュンパ・ラヒリさんの「停電の夜に」を再読しました。

この作品を読むまで、私の読む海外文学作品は、世界文学全集に収録されているような作品が主体でした。現代の海外文学作品も凄いと気づかせてくれたのが、このラヒリさんの「停電の夜に」でした。

今回読んだのは文庫版の方ですが、新潮クレスト版も手元にあります。その時々の気分によって、文庫版と新潮クレスト版を読み分けるのも楽しみの1つです。(^^)

この本には、9編の短編が収録されています。日本での本のタイトルでもある、「停電の夜に」を初めて読んだ時の衝撃は今でも忘れられません。子供を失いすきま風が吹いている夫婦が、工事の影響で停電してしまう時期にロウソクの明かりの中で打ち明け話をする静かな物語です。

書き方によっては、もっとドロドロした内容になりそうなところを、重くなりすぎず幻想的な雰囲気さえ感じさせながら物語る語り口。そして、最終的にこの夫婦がどうなるのかという静かな緊張感が、読者を先のページへと誘います。

この他に、「ピルザダさんが食事に来たころ」「病気の通訳」「本物の門番」「セクシー」「セン夫人の家」「神の恵みの家」「ビビ・ハルダーの治療」「三度目で最後の大陸」が収録されています。個人的な好みは、「停電の夜に」と「三度目で最後の大陸」ですが、どの作品もとても質が高いです。

「本物の門番」と「ビビ・ハルダーの治療」はインドが舞台のようですが、どちらも社会の底辺にいる人物にスポットが当たっていて、読むたびに痛みを感じます。特に「ビビ・ハルダーの治療」は障害者虐待と思える描写もあり、読んでいて悲しくなります。
「三度目で最後の大陸」は今読み返すと、その後に発表された長編「低地」へのつながりを特に感じました。

今現在はラヒリさんはローマへと移住されて、英語ではなくイタリア語で創作を続けているそうです。次の作品がいつ発表されるのか、そしてそれがいつ翻訳されるのか、全くわかりませんが新作の発売を心待ちにできる作家がいるのはいいものですね。(^^)
地下室の手記 (新潮文庫)ドストエフスキーの「地下室の手記」を読み終えました。

池澤夏樹さんの「世界文学を読みほどく」を読んで、まずはドストエフスキーからと思ったものの、いきなり「カラマーゾフの兄弟」を読むのはボリュームがありすぎて圧倒されたので^^;、文庫で250ページほどのこの作品を読んでみることにしました。

物語の主人公は、元はとある官吏だったけれど、ちょっとした遺産が手に入ったことから仕事を辞めて、地下室に引きこもり生活を送っています。そんな彼が書いた手記を、著者であるドストエフスキーが世間に発表したという形式の物語です。

物語は2部構成です。第1部では、引きこもり生活をしている主人公がこの手記を書くに至った動機などを語っています。第2部は、彼がまだ官吏として働いていた時代に起きた出来事が語られます。主人公はかなり自意識過剰で、知性は高いけれど人づきあいは下手で、かなり痛々しい人間として描かれています。

読み始めた当初は、主人公のあまりの痛々しさに、読むのが辛いところもありました。しかし読み続けていくうちに、主人公の持つ痛々しさは、自分の中にもあるものではないかと思うようになりました。主人公はかなり極端な人物として描かれていますが、その高慢さ、姑息さ、醜悪さは大なり小なり、あらゆる人間が抱えているものだと感じました。
それゆえに、この作品は誰もが引き込まれる要素を持った作品だと思いました。

この作品を読んでいて、中島敦さんの「山月記」を思い出しました。そこに登場する隴西の李徴も、優秀だけれど傲慢で、下級官吏に身を落としたことが原因で、ついに発狂して虎に変じてしまいます。そんな李徴の哀れさと、「地下室の手記」の主人公の哀れさには、通じるものがあるような気がしました。

「罪と罰」でもそうでしたが、ドストエフスキーの作品は登場人物が雪崩のようにまくしたてるように話す、勢いが印象に残りますね。そのテンポの良さのおかげで、先へ先へとページを進めて、気がついたら1つの作品を読み終えていた感じです。
郷愁―ペーター・カーメンチント (新潮文庫)久しぶりにヘッセの「郷愁 ペーター・カーメンチント」を読み終えました。

今回読んだのは、新潮文庫の高橋健二さんの翻訳によるものです。思い返してみれば、初めて読んだヘッセの作品が「郷愁」でした。この時は、講談社の世界文学全集に収録されていた登張正実さんが翻訳されたものでした。最初は山間の村の厳しい自然描写が延々と続くのが苦痛だった覚えがありますが、いつの間にかその作品世界に引き込まれていました。

その後、新潮文庫や新潮社から発売されていたヘッセ全集に収録されている高橋健二さんの翻訳と出会いました。さらにずっと後になって、臨川書店から発売されたヘルマン・ヘッセ全集に収録されている春山清純さんの翻訳を読んで、今回再び新潮文庫に戻ってきました。

自分自身の中では、高橋健二さんの翻訳が決定版だと思ってきましたが、今回読み返してみたら思っていた以上に古風な翻訳で驚きました。作品はずっと変わらずそこにあり、自分自身も精神的にはそれほど変わっていないつもり^^;だったのですが、歳月は知らない間に人の心を変えていくものだなあと、しみじみした気持ちになりました。

今回の再読での発見は、作中で言及されているアッシジの聖フランチェスコ(本文中では、アシジの聖フランシスとなっていましたが)に、ヘッセが大きな影響を受けていることに気づいたことです。この聖人については、私は昔は何の関心も持っていませんでした。しかし、エクナット・イーシュワランさんの「スローライフでいこう」を何度も読み返しているうちに、いつの間にか気にかかる存在になっていました。

特に心に残るのが、「平和の祈り」という文章です。Wikipediaを読むとこの文章は聖フランチェスコが書いたものではないようですが、誰が書いたものにせよ、その内容は読み返すほどに心に響くものがあります。

その崇高な教えは、私は一生かかっても実践し抜くことはできないでしょうが^^;、疲れた時や傷ついた時、腹立たしい時、この言葉と向き合うことで穏やかで謙虚な気持ちを思い出させてくれます。
話がヘッセの「郷愁」からかなり脱線してしまいましたが、「平和の祈り」と同じく「郷愁」も再読、再々読に耐える優れた作品だと思います。

作品の後半では、老いや死も顔をのぞかせます。若い頃に読んだ時にはよくわかりませんでしたが、それなりに年取ってから後半を読むと、老いを自覚した主人公の心境に共感できるものがありました。
しかし、ヘッセがこの作品を書いたのは、まだ20代後半です。優れた作家の洞察力、想像力の凄さに感服させられました。あらゆる年代の心に響く何かを持っているからこそ、この作品は今でも読み継がれているのでしょうね。(^^)
百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)以前から読破したいと思っていた、G・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」をついに読み切りました!(^^;

これまでに何度かトライしたことがありましたが、そのたびに物語に翻弄されて撃墜されてきました。

今回、読破の突破口となったのは、前に読んだ齋藤孝さんの「本をサクサク読む技術」でした。この本の中で、「百年の孤独」について触れている箇所があり、同じ名前の登場人物が何人も登場したり、過去と未来と現在が同時に語られているのは、作者が意図的に読者を混乱させようとしている、という指摘がありました。

そう思って読んでみたら、初めてこの本の面白さに気づくことができました。物語で語られるのは、南米のとある国にマコンドという村を開拓した、ブエンディア一族の隆盛と滅亡です。そこはまさに、何でもありの世界です。ジプシーの怪しげな錬金術や魔術が、当たり前のように日常と同居しているだけでなく、生者と死者の境界さえ曖昧に感じられます。

そんな世界で繰り広げられる、ブエンディア一族の人々の悲喜こもごも。常軌を逸したバカ騒ぎが繰り広げられたり、夢と現実が交錯するような不思議な感覚。そして隙あらば人間を飲み込もうとする、旺盛な植物の繁茂や昆虫などの繁殖。

そんな全てが溶け合った坩堝のような物語に、いいように翻弄された感じです。
でも、その混沌としたところが、とても魅力的でした。物語の整合性や論理は崩壊していると言ってもいいくらいなのですが、物語が本来持っていた原始的な力強さのようなものを感じました。

この作品がノーベル文学賞を受賞して、20世紀が生んだ物語の豊潤な奇蹟とまで言われる理由が、ようやく理解できました。
煉瓦を運ぶ (新潮クレスト・ブックス)アレクサンダー・マクラウドの「煉瓦を運ぶ」を読み終えました。

著者は、私の大好きな作家アリステア・マクラウドの息子さんです。アリステア・マクラウドは、2014年に惜しくも亡くなられましたが、生涯に発表した作品は短編16作、長編1作というとても寡作な作家です。しかし、その作品の魅力は安易に言葉で語りたくないくらい素晴らしくて、たまたま読んだ短編集「灰色の輝ける贈り物」の最初の短編を読んだ時から、大好きな大好きな作家になりました。(^^)

そんなアリステア・マクラウドの息子さんの本が出たと知って、本屋に駆けつけて本書を購入しました。やはりお父さんと同じような作風なのか、それとも全く違う作風なのか、読み始める前から期待と不安でいっぱいでした。

アレクサンダー・マクラウドの最初の短編集である本書には、7つの作品が収録されています。「ミラクル・マイル」、「親ってものは」、「煉瓦を運ぶ」、「成人初心者I」、「ループ」、「良い子たち」、「三号線」の7つです。
読み始めた最初の印象は、お父さんと比べるとモダンな作風だなあと思いました。そして、ある出来事の瞬間の切り取り方が、とても巧みだと思いました。

その時の登場人物の心理状態への切り込み、何物も見逃さないような緻密な描写。まず、この2つに圧倒されました。時に冷徹とさえ思えるような鋭い描写に、生理的な嫌悪感さえ感じさせられました。でも1作を読み終えると、すぐに次の作品が読んでみたくなりました。
物語は時に「え!?、ここで終わり!?」と唐突に終わってしまうものもありましたが、それが逆に心に残り、その後の登場人物のことが気になりました。

どの作品もそれぞれに味がありますが、個人的には後半の3作「ループ」、「良い子たち」、「三号線」が好みでした。
お父さんと同様、著者もかなりの寡作ぶりのようですので、次の作品集がいつかと考えると気が遠くなりますが^^;、次回作が発売されたら、きっと今回と同じように本屋に駆けつけることになるでしょうね。
あなたを選んでくれるもの (新潮クレスト・ブックス)ミランダ・ジュライさんの「あなたを選んでくれるもの」を読み終えました。

この本は、映画の脚本作りに行き詰まった著者が、フリー・ペーパーに売買広告を出している人の元を訪れて、インタビューさせてもらった内容をまとめたノンフィクションです。ページをめくって驚いたのは、文章だけでなく、多数の写真も掲載されていたことでした。新潮クレスト/シリーズの中では異色の本でしたが、その内容にはとても引きつけられるものがありました。

著者が訪れるのは、「ペニー・セイバー」という小冊子に販売広告を出している人々です。冊子の名前からもうかがえるように、それはちょっとした小銭を節約しようという人向けに、ロサンジェルスで無料で配布されているものです。
そこには、さまざまな品物が紹介されています。脚本を仕上げるという現実から逃避した著者は、そこに書かれた広告の隅から隅まで目を通します。そしてある日、広告を出している人達にインタビューしてみようと思い立つのでした。

もちろん、全ての人がインタビューに応じてくれたわけではありません。しかし、インタビューに応じてくれて、この本に紹介されている誰もが、読者の心に強烈なインパクトを残す何かを持っていました。
それは、性転換しようとしている60代の男性だったり、インドの衣装を販売している夫人、スーツケースを売ろうとしている老婦人、おたまじゃくしを販売している高校生、レパード・キャットを販売している女性、ガレージセールで買った赤の他人のアルバムをたくさん集めているギリシア女性、元犯罪者で今は足にGPS発信器の装着を義務づけられている男性、キューバから移民してきた夫婦、体のあちこちにタトゥーやピアスをしている女性。
そして、著者の映画の中で重要な役割を演じることになる老人との出会いが待っていました。

最初は、単なるバラバラのちょっと個性的な人々に見えた彼らですが、共通点を持っていることに著者は気づきます。
それは、どの人もコンピュータと無縁な生活をしている人達だったのです。現在、これだけコンピュータやネットが発達していると、それと無縁に存在する人々がいることを私たちは忘れがちです。
著者もコンピュータとスマホに依存した生活をしています。しかし、それを通してでは決してつながることのできなかった人々と、今回のこの試みのおかげでつながることができたのでした。

特に印象的なのは、著者の映画に出演することになった老人との出会いです。彼は真面目なペンキ職人として働いてきましたが、金銭的には恵まれておらず、今では生活保護費に頼って暮らしています。生活は楽ではないけれど、彼はやるべきことを淡々と行いながら暮らしています。それは亡くなった犬や猫をきちんと埋葬してあげることだったり、体が不自由な人達の代わりに買い物に行ってあげたり、その時には打たれて死んだ警官から譲り受けた上着を必ず来て出かけたり・・・。

そんな老人との出会いが、停滞していた著者の映画作りを動かしました。そして、その老人を起用した映画は、ついに完成したのでした。しかし、著者が映画の編集を終えた時、老人はすでに亡くなっていました。
著者は残された老人の妻と会い、彼の最期の様子を聞きました。夫を亡くしたばかりの奥さんは、病を抱えながらも意外なくらい元気でした。それは「だって不幸な人間でいることは良くないことだもの」という奥さんの信条があったからでした。

この本を読み終えた今、私の中でいろいろな感情が渦巻いています。それは人生の哀しさだったり、誰も自分だけの人生を生きていることだったり、どん底と思えるようなところにも希望や夢があったり、神様のイタズラなのか思いがけないドラマが待っていることがあったり。
この混沌とした気持ちをもっと整理したいような、あえて散らばったままの今の気持ちを持ち続けることが大切なのかもと思ったり。

でも1つだけ確信しているのは、この本と出会えて本当によかったという気持ちです。それさえも、地球上の多くの人生のほんのわずかな部分でしかないけれど、それに触れることができて、本当によかったと思いました。(^^)
湖畔のアトリエ (新潮文庫 赤 1-1)ヘッセの「湖畔のアトリエ」を再読しました。

古本屋で運良く、「湖畔のアトリエ」の新潮文庫版を見つけました。以前、臨川書店の「ヘッセ全集」に収録されていたものは、あまりに翻訳が酷くて残念でしたが、新潮文庫版は高橋健二さんの訳なので安心して読むことができました。(^^)

画家のフェラグートは、湖の畔にあるロスハルデと呼ばれる古い貴族屋敷を買い、それを改修して家族と共に暮らしています。しかし、彼の生活は幸せではありませんでした。フェラグートと妻のアデーレ夫人の関係は、何年も前から冷え込んでいたのでした。2人の間には、アルベルトとピエールという息子がいました。しかし、フェラグートとアルベルトは折り合いが悪く、アルベルトは休暇の時以外は寄宿学校で暮らしているのでした。

フェラグートは、アデーレと離婚することも考えました。しかしピエールの存在が、フェラグートを引きとどめていました。フェラグートは、ピエールは自分の手元で育てたいと思っていました。しかしアデーレは、それを承諾してくれません。それでフェラグートは、今のこの中途半端な生活を続けてきたのでした。

しかしインドに行っていたフェラグートの友人、ブルクハルトがロスハルデを訪れたことで、フェラグートの心に大きな変化が生まれました。ブルクハルトは、芸術家としてのフェラグートを認めていました。そして、このままロスハルデで暮らすことは、フェラグートの芸術活動によい影響を与えないことに気づかせたのです。そのためには、ピエールと別れて暮らすという苦しみに耐えることも必要だと、ブルクハルトは教えたのでした。

ブルクハルトから言われたことは、フェラグート本人もうっすらと感じていたことでした。ブルクハルトと話したことで、ようやくフェラグートは決意を固めたのでした。家族との別れを決意したフェラグートは、それを実行するために行動を開始しました。そんな時、ピエールが体調を崩しました。

最初はたいしたことないと思われたピエールですが、やがて大きな病気を抱えていることが明らかになりました。フェラグートは、自分の絵のことも忘れてピエールの介護に専念します。しかしピエールの容態は悪化して、命を落とすのでした。ピエールを失って初めて、フェラグートは自分が本当の愛情を知ったことに気がつきました。
ピエールの葬儀を終えたフェラグートは、アデーレ夫人とアルベルトと別れて、それぞれの道を進むことになりました。

200ページほどの作品ですが、美しいロスハルデの自然描写、芸術家としてのフェラグートの苦悩、そしてピエールを失ったことで知る愛情と、読み応えのある作品でした。この作品の執筆当時、ヘッセ自身も家庭問題に悩んでいて、それが作品に反映されているそうです。

現在の新潮文庫では、この作品は絶版になっているのが残念です。新潮社は、高橋健二さんのヘッセ全集も絶版のままなのが悔しいです。貴重な翻訳がこのまま埋もれてしまうのは惜しいので、ぜひ復刊して欲しいです。
荒野の呼び声 (岩波文庫)ジャック・ロンドンの「荒野の呼び声」を読み終えました。

セントバーナードとシェパードの混血犬バックは、アメリカの判事の屋敷で暮らしていました。しかしある日、バックは男に掠われて、アラスカへと送り込まれたのでした。この時代はゴールドラッシュで、一攫千金を目指して多くの人々がアラスカへと入り込んでいたのでした。バックはそこで、橇を引く過酷な労働を強いられる日々を送ることになるのでした。

最初は急激な環境の変化に戸惑うバックでしたが、驚くべき狡猾さで生き抜くすべを身につけていきます。そしてバックは、多くの人々から知られる存在となったのでした。そしてバックは、人間に飼われる存在から、己だけで自由に生きる存在へと変貌していきます。そして大好きな人間がいなくなったその時、バックは自らの生きる場所として荒野を選ぶのでした。

150ページほどの短い作品ですが、荒々しい環境の中で生きることを余儀なくされたバックの運命に引きつけられました。最終的にバックは野性に帰りますが、それまでの人間への献身ぶりがより印象に残りました。
アメリカン・マスターピース 古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)著名な翻訳家である柴田元幸さんが、アメリカ文学の短編小説から名作を集めた本です。

この本には、8人の作家の作品が収録されています。ナサニエル・ホーソーンの「ウェイクフィールド」、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」、ハーマン・メルヴィルの「書写人バートルビー」、エミリー・ディキンソンの詩が数編、マーク・トウェインの「ジム・スマイリーと彼の跳び蛙」、ヘンリー・ジェームズ「本物」、O・ヘンリー「賢者の贈り物」、ジャック・ロンドン「火を熾す」です。

これまでに柴田さんの翻訳は、ポール・オースターの作品を手に取ったことがありました。しかし、その作品はどうも私にはなじめないものでした。そこでポール・オースター以外で柴田さんが翻訳された本を探していて、この本を見つけました。気に入った作家、今ひとつだった作家がありましたが、この本1冊で複数の作家の作品に触れられたのはよかったです。

個人的に一番気に入ったのは、ジャック・ロンドンの「火を熾す」でした。厳冬のユーコン川の側を、1人の男が仲間と合流するために歩いて行く話なのですが、リアリティのある寒さの描写が強烈に印象に残りました。ジャック・ロンドンは、「白い牙」や「荒野の呼び声」を書いた作家という知識はありましたが、これまでその作品を読んだことはありませんでした。この機会に、他の作品も読んでみたくなりました。
その他に気に入ったのは、ホーソーンの「ウェイクフィールド」とメルヴィルの「書写人バートルビー」です。

「ウェイクフィールド」は、突然妻の前から夫が失踪するお話です。失踪した夫は、密かに自宅の側に部屋を借りて、変装してそこで暮らしています。そして彼は、妻の様子を観察し続けるのです。その異常な設定と、何者からも隔絶されたような孤独感が心に残りました。

「書写人バートルビー」も、やはり不思議なお話です。とある法律家の元に書写人として雇われたバートルビーという男は、書き写しの仕事の手が空いている時に別の仕事を頼んでも、「それは好ましくないのです」と聞き入れません。法律家は、そんなバートルビーを持て余しますが、かといって首にすることもできずというお話です。
この作品も不思議なお話ですが、バートルビーと法律家のやり取りを読んでいると、世間で正しいと思われていることは本当に正しいのだろうかと、ふと疑問に思いました。

この「アメリカン・マスターピース」は、古典篇に続いて、準古典篇、現代篇も刊行される予定らしいので、続きが発売されたら読んでみたいです。(^^)
ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫)ジョージ・ギッシングの「ヘンリ・ライクラフとの私記」を読み終えました。北方謙三さんがお薦め本として紹介されていたのがきっかけで、この本を手に取ることになりました。

ヘンリ・ライクロフトは、若い頃はロンドンで文筆業で暮らしをたてていましたが、多くの文章を書いたものの世間にはほとんど知られる存在となりませんでした。彼は生活のために、さまざまな文章を書き綴ってきましたが、50歳になった時に資産家だった知人が彼にまとまった資産を残してくれたことで、以後は悠々自適の生活を送ることができるようになりました。
南イングランドに移り住んだライクロフトは、そこで文筆から離れて、穏やかな生活を送りました。彼の死後、友人が残された私記を発見し、それを春・夏・秋・冬に分類して発表したのがこの本、という設定です。

ヘンリ・ライクロフトは架空の人物ですが、そのここかしこに著者であるギッシングの思いがあふれています。
この本の良さはいろいろあるのですが、まずはそこに流れているゆったりとした時間が心地よかったです。300ページもない本なので、その気になれば一日で読破することもできるでしょうが、作品の雰囲気に浸りつつゆったりと楽しみたい作品ですね。

ゆったりとした時間以外にも、美しい風景描写に、心を和まされました。その一方で、本を愛すること、文章を書くこと、歴史についての思いなども綴られています。その全てに賛同するわけではありませんが、それが架空の人物であるライクロフトに存在感を与えています。

この本で描かれたライクロフトの晩年の生活は、読書好きな人や知的な生活を送りたいと考えている人にとって、憧れの生活ですね。生活の苦労から解放され、都会の喧噪から離れて静かな自分が満足できる生活を送る。できることなら、私もこんな晩年を送ってみたいものです。(^^; でも、お金持ちの親戚や知人はいないので無理でしょうけどね。(笑)

人生において、何度も読み返したくなる本はそんなにたくさんはありませんが、この本は再読を重ねていく数少ない本の1つになりそうです。
べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)ジュンパ・ラヒリさんの「べつの言葉で」を読み終えました。この本は、ラヒリさんがイタリア語で書かれたエッセイと短編を集めたものです。

最初に書店でこの本を手にした時、これまでラヒリの作品を翻訳してきた小川高義さんではないのに気づいて、あれ!?と思いました。その謎は、本を読むことで明かされました。これまでのラヒリさんの本は英語で書かれていましたが、この本はアメリカから移り住んだローマで、イタリア語で書かれたものでした!

ラヒリさんは、自宅ではベンガル語、外では英語という、2つの世界に生きながら、そのどちらにも本当には属していないという思いを抱えていました。これは作品の中にもたびたび現れる、断絶というモチーフともつながります。
そんな中で出会ったイタリア語に魅せられて、ローマに移住する前に20年以上もイタリア語の学習を続けてきたこと。そしてついに、ローマに住むことを決めて移住したことが語られていきます。

しかし、そこでもやはりラヒリさんは疎外感を味わいます。それでもなお、彼女はイタリア語に惹かれずにはいられません。ベンガル語は両親から、そして英語は周囲とのコミュニケーションのために学んだ言語です。しかし、イタリア語はラヒリさん自身が選んだ言葉です。英語ほど堪能ではないので、時にもどかしさを感じもするけれど、それでも収録されているエッセイからは、イタリア語に対するラヒリさんの深い思い入れが伝わってきます。

一緒に収録されている短編、「取り違え」と「薄暗がり」はそんなラヒリさんの現在を写しつつも、やはりラヒリさんの作品らしくもあり、でもこれまでの作品とはどこか異なる雰囲気を感じさせるものでした。
デーミアン久々にヘッセの作品を読みました。今回読んだのは、「デーミアン」です。以前読んだ時は、高橋健二さんの訳で読みましたが、今回は講談社の世界文学全集の中に収録されている秋山英夫さんの翻訳のものを読むことにしました。

臨川書店のヘッセ全集も手元にあるのですが、この翻訳は「ロスハルデ」の時のように酷いものだったので読み続ける気になれませんでした。臨川書店のヘッセ全集は、現在唯一新刊で入手できる全集なのに、訳者によって翻訳レベルがあまりに違いすぎるのが残念です。(;_;)

アニメファンには、ヘッセの「デミアン」は「少女革命ウテナ」で、その内容が引用されていることでも有名ですね。
原文の「鳥は卵からぬけ出ようと、もがく。その卵は世界だ。生まれ出ようとするものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神のもとへ飛ぶ。その神の名はアブラクサス」は、生徒会メンバーが集まっているシーンで少し形を変えて、「卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。我らが雛だ。卵は世界だ。世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。世界の殻を破壊せよ。世界を革命する為に」というセリフとして何度も繰り返されます。

さて、「デーミアン」の内容ですが、物語の主人公はエーミール・ジンクレールという少年です。彼は昔から、光ある温かい世界と、闇の暗い世界の2つの世界を意識しながら暮らしています。そんな彼の前に現れるのが、転校生のデーミアンでした。年上のデーミアンに、エーミールはどうしようもなく惹かれるものを感じます。それはデーミアンが、エーミールと同じく、2つの世界を意識して生きていたからでした。デーミアンとの出会いは、その後のエーミールの生き方に大きな影響を与えていくことになります。

この物語は、前半はエーミールの青春物語といった雰囲気です。ところが、中盤以降から物語が大きく変化していきます。神秘思想を思わせるような記述が続き、物語もだんだんと脈絡がなくなり、夢の中の出来事が語られているような不思議な雰囲気を漂わせます。この変化は、執筆当時のヘッセの精神状態が大きく影響しているらしいです。
そして、なんだかよくわからないまま物語は唐突に終わります。(^^;

今回読み返したことで、以前よりも内容が理解できるかと思いましたが、前半に登場するカインとアベルの物語など聖書の物語に対する理解不足もあって、やはり今ひとつ理解できない作品でした。でも、デーミアンの持つ強烈な魅力には引きつけられるものがあります。また時を置いて、いつか読み返したい作品ですね。
八月の光 (新潮文庫)このところフォークナーの作品を賞賛している文章をいくつか読みました。それに刺激されて、フォークナーの「八月の光」を読みました。

フォークナーの作品は、以前「アブサロム、アブサロム!」に挑戦したことがありましたが、その時は途中で挫折してしまいました。今回読んだ「八月の光」は、「アブサロム・・・」よりも読みやすいと聞いたこと、翻訳が「タオ」の加島祥造さんだったことで、読んでみようという気になりました。

物語は田舎娘の妊婦・リーナが、彼女を置き去りにした男を探して旅をしているところから始まります。状況的に見て、リーナは男に妊娠させられたあげく捨てられたのですが、リーナは男がお金を稼いで戻ってくると言い残した言葉を信じて彼を待っていたのでした。しかし、もうすぐ出産というのに男が帰ってこないので、リーナは自ら男を探す旅に出かけたのでした。

それらしい男が、南部のジェファスンという街にいるらしいと聞いたリーナは、ジェファスンへとやって来ました。そこに本当に男はいたのですが、リーナは別の男を彼女の捜し求める男だと勘違いしていたのでした。リーナの話を聞いた男・バイロンは、自分と一緒に働いていたブラウンこそがその男だと気づきました。しかしバイロンは、リーナに恋してしまった上に、街ではとある女性が殺害される事件が起きていたのでした。

その殺人事件の犯人が、物語のもう1人の主人公であるジョー・クリスマスです。彼は見た目は白人ですが、黒人の血が流れていると言われていました。そして物語は、ここから一気にクリスマスの悲劇的な運命が語られます。孤児として育ったクリスマスは、狂信的な宗教観を持つ男に引き取られて育てられました。そこで非人間的な生き方をたたき込まれたクリスマスは、やがて養父を殴り倒して家を飛び出したのでした。

各地をさまよったクリスマスは、流れ流れてジェファスンへとやって来ました。そこで彼は北部からやって来たため、街の中で孤立していたバーデンという老婦人と深い仲になりました。そしてクリスマスは、彼の魂までも縛り付けようとする婦人を殺害することになります。

物語は複数の視点から描かれていて、そのうえ時間も過去に飛んだりするので、はじめは全体としての流れをつかむのに苦労しました。でも、複数の糸が寄り集まって、一本の大きな物語が生まれてくるのは凄いと思いました。リーナやクリスマスの他にも、リーナを捨てたブラウン、リーナを手助けするバイロン、元牧師のハイタワー、クリスマスの祖父母など複数の人間が描かれていますが、その1人1人の生きてきた歴史や存在感がありました。

南北戦争後も南部に根強く残っている黒人差別や街の閉鎖性の恐ろしさを描きつつ、呪われた運命に翻弄されたクリスマスの悲劇が重く心に残ります。唯一の救いは、男に捨てられながらも彼を追い、彼の子供を産んだリーナの存在です。
リーナの描かれ方は神聖すぎるような気もしますが、この重く暗い物語の中では、彼女の存在は光のように感じられました。
ヴォルテール、ただいま参上! (新潮クレスト・ブックス)ハンス=ヨアヒム・シェートリヒの「ヴォルテール、ただいま参上!」を読み終えました。

この本の主人公は、思想家のヴォルテールとプロイセンの王フリードリヒ二世です。2人の名前は、世界史の授業で習ったように思いますが、名前を知っている以上の知識はありませんでした。この本では、2人の間で取り交わされた書簡なども引用しつつ、2人の複雑な友情と駆け引きが描かれた作品です。

有名な思想家ではあるものの、宮廷からはちょっと煙たい存在と思われているヴォルテール。そんな彼の理解者は、愛人であるエミリー・ド・シャトレ侯爵夫人です。エミリー自身も当時の女性としてはかなり高い教養の持ち主で、ニュートンの書いた「プリンキピア」をフランス語に翻訳したりしています。

そして、遠く離れたプロイセンの地でヴォルテールに熱を上げていたのが、当時はまだ王子だったフリードリヒ二世でした。フリードリヒからの絶賛の手紙を受け取ったことから、ヴォルテールとフリードリヒの交流が始まりました。
そしてヴォルテールは、フリードリヒの熱烈な要請を受けて、プロイセンを訪れることになるのでした。

ヴォルテールと交流する一方で、フリードリヒは勢力を拡大していきます。そんな中ヴォルテールは、時にフランス王室の思惑で、フリードリヒの動向を探るためのスパイに仕立て上げられそうになったりもします。

やがてヴォルテールは、フランスを去り、フリードリヒの招きでプロイセンで暮らすことになりました。最初はいい関係が続いていたヴォルテールとフリードリヒでしたが、ヴォルテールの投機を巡る問題や、フリードリヒが後援する学者をヴォルテールが批判したことから、2人の関係は冷え切っていくのでした。

結局ヴォルテールは、フリードリヒの元を去り、フランスへともどることになります。物語はここで終わりますが、「あとがき」によれば、その後もヴォルテールとフリードリヒの間には手紙のやりとりはあったそうです。

歴史上の人物が主人公なので、堅い作品なのかと思ったら、ヴォルテールの金銭への執着ぶりや、フリードリヒの横暴さなど、人間らしい一面も描かれていて、かなり楽しく読み終えることができました。
メインとなるのは、この2人の関係なのですが、ヴォルテールの愛人エミリーの、最愛の人はヴォルテールだけれど、それ以外にも愛人はつくる。そして、お互いの仕事を尊重し合うクールな関係はかっこいいなぁと思いました。

最後に、この本を読んでいて一番笑ったのは、ヴォルテールがフランス宮廷を去りプロイセンに行った時、ルイ十五世が言った「こっちの宮廷から狂人が一人減った」でした。(^^;
ジェイン・エア(下) (光文社古典新訳文庫)シャーロット・ブロンテの「ジェイン・エア(下)」を読み終えました。

ロチェスターが愛している人は、同じ階級の女性ではありませんでした。真に心と心がつながっていたのは、ジェインだったのです。ロチェスターから愛の告白を受けたジェインは、ロチェスターとの結婚を承諾しました。全ては順調に進んでいるように見えましたが、ロチェスターには大きな秘密がありました。

それはなんと、2人の結婚式の日に明らかになったのです。ロチェスターは、若い頃に外国に出かけて、そこである女性と結婚していたのです。その女性は、狂人でした。そのことをジェインに隠したまま、ロチェスターはジェインと結婚しようとしていたのでした。それを知ったジェインは、妻のある人とは結婚できないとソーンフィールドから逃げ出したのでした。

とはいえ、ジェインには頼れる身寄りもありません。手持ちのお金もなく、ジェインは餓死寸前です。そんなジェインを救ってくれたのは、ダイアナとメアリという姉妹でした。そこで手厚い介護を受けたジェインは、元気を取り戻しました。そして姉妹の兄で牧師のセント=ジョンの助けを得て、近隣の農家の娘たちに勉強を教える仕事を得たのでした。

そして驚くべき事実・・・というよりかなり都合のいい事実が明らかになりました。(^^;
なんとジェインと、ダイアナ、メアリは、遠縁の従姉妹だったのでした。そして彼らの叔父が亡くなって、大金が残されていました。しかし、その遺産は、叔父の遺言でジェイン1人が相続することができたのでした。
2万ポンドという大金を得たジェインですが、彼女はそれをダイアナやメアリ、セント=ジョンと公平に分けました。生活が苦しくて、家庭教師として働かなければならなかったダイアナたちは、このお金に救われたのでした。

そんな中、セント=ジョンがジェインに、自分と結婚して宣教のために一緒にインドに行って欲しいと言い出しました。しかし、彼にはジェインに対する愛は全くありません。彼が必要としていたのは、困難に直面しても立ち向かう力と、聡明さを持った女性だったのでした。それを察したジェインは、セント=ジョンの申し出を断りました。しかし、彼は執拗に神のために尽くせとジェインを誘います。

しかし、ジェインの心の奥には、ロチェスターへの思いが消えていませんでした。思い悩むジェインは、ある日自分を呼ぶロチェスターの声を聞いたような気がしました。そしてジェインは、もう一度ロチェスターに会うためにソーンフィールドを訪れたのでした。しかし、そこにあった屋敷は火事で焼け落ちて、廃墟だけが残されていました。

近所の住民から事情を聞いたジェインは、ロチェスターの狂った妻が屋敷に火をつけたこと。そんな中、ロチェスターが屋敷の使用人や妻を助けようと努力したこと。そして、その時にロチェスターが重傷を負い、失明してしまったことを知ったのでした。ジェインはすぐさまロチェスターの元へと向かいました。そこにいたロチェスターは、かっての生気を失っていました。ジェインは、そんな彼の力になりたいと心から望みました。

2人が離れている間にも、ジェインとロチェスターの間の思いは変わることがありませんでした。そしてジェインは、ロチェスターと結婚することを決意したのでした。こうして2人は、大きな困難を乗り越えて、ようやく一緒になったのでした。

前巻を読んでから時間が経ってしまいましたが、物語としては前巻の方が面白かったです。下巻の最初の方は、ジェインとロチェスターのラブラブぶりが続いて、ちょっとげんなりしました。(^^;
ロチェスターの秘密が明かされて、ジェインが彼の元を去ってから物語は面白くなりましたが、そこでもジェインはセント=ジョンという男に利用されそうになります。作中では、このセント=ジョンが一番嫌いな人物でした。

宗教的な情熱や忍耐力は素晴らしいのですが、彼は神様の方しか見ていません。個人的に、信心はそれぞれの心に秘めて己を律するためのもので、他人を服従させるものではないと思っているので、セント=ジョンのように神の名のもとに服従を強要し、それに従わないのは罪だと考えるような人は好きになれません。

物語全体としては、自らの手で運命を切り開いていくジェインは魅力的だと思いました。ただ、ロチェスターの元を逃げ出したジェインがたどり着いたのが、遠縁の従姉妹のところだったり、運良くお金持ちの叔父さんが亡くなって大金を得たりという都合のいい展開にはがっかりしました。(^^;