日々の記録

アニメと読書の感想をメインにしたブログです。 ☆ゆるゆるっと更新中です☆


読み始めてから1年くらいかかりましたが^^;、ようやく「失われた時を求めて(4) 花咲く乙女たちのかげに II」を読み終えました。

前巻から2年後、"私"は祖母と一緒に、ノルマンディーの保養地バルベックに滞在することになりました。物語はその出発から帰還までの数ヶ月の一夏を、これでもかというくらいに詳細に描いています。(^^;
"私"がバルベックに到着するまでで、50ページくらいかかります。初めて自宅や母から離れて暮らす"私"の詳細な心理描写など、それだけでも十分な読み応えがありました。

ようやくバルベックに到着に到着したものの、"私"は初めてのホテル暮らしになかなか慣れません。その転機となったのは、祖母のヴィルパリジ公爵夫人との出会いでした。さらに夫人の甥のサン=ルー侯爵との出会いによって、"私"はあちこちと出歩くようになります。

しかし何より決定的なのは、サブタイトルにある「花咲く乙女たち」との出会いです。最初は"私"は、彼女たちの姿を遠くから見ることしかできません。何とか彼女たちとお近づきになろうとしますが、なかなか上手くゆきません。
そんな時、"私"は画家のエルスチールと知り合います。エルスチールは、"私"がバルベックの芸術で見落としているものを指摘してくれただけでなく、乙女たちとのつながりを作ってくれました。

こうして"私"は、ようやく乙女たちと知り合うことができました。最初は彼女たちの1人1人を把握できなかった"私"でしたが、やがてそれぞれの個性に魅了されます。中でもアルベルチーヌという娘が"私"の心を引きつけました。"私"はアルベルチーヌとさらにお近づきになろうとしますが、"私"の下心は娘たちに見抜かれているようで上手くゆきません。

そんな中、アルベルチーヌが早朝からパリに出かけるために、"私"の泊まっているホテルに宿泊することになりました。
アルベルチーヌは、かなり思わせぶりな言葉で"私"を誘惑します。しかし、その夜にアルベルチーヌの部屋を訪れた"私"は、あっけなくアルベルチーヌに肘鉄を食らわされてしまいます。(^^;

そんなアルベルチーヌの態度に、"私"はショックを受けますが、ジルベルトへの恋に破れた時のように荒れることもなく、その後も適度に距離を置きつつアルベルチーヌや他の乙女たちとの関係は続きます。

しかし、その時間も永遠に続くわけではありません。滞在を終えた乙女たちは次第にバルベックを離れ、ホテルに残る人たちの姿も少なくなります。そして"私"も、バルベックから帰還する日が来るのでした。

要約すれば、この巻は"私"がバルベックで過ごした一夏の物語です。しかし、それが詳細に650ページほどの分量で詳細に描かれます。風景の描写も多いですが、それ以上に緻密に描かれているのがバルベックに集まる様々な人々の言動や、"私"の心の動きです。

前巻と同じく、細かに章立てされているわけでなく、延々と物語が続いてゆくので、読むのを一区切りするタイミングが決めづらいです。結局、読み疲れたところで止めて、次に読んだ時に内容がつながらなかった時は少し前から読み返して記憶を繋いでゆく方法で読み切ることが出来ました。(^^)
スイスのロビンソン 下 (岩波文庫 赤 762-2)「スイスのロビンソン(下)」を読み終えました。

無人島でのロビンソン一家の生活が続いています。下巻では、大蛇と戦ったり、ダチョウを生け捕ったり、イノシシやライオンとも戦い、どれくらいの大きさの島にいるのかわかりませんが、どれだけ豊富に動物がいるんだろう^^;と思ったりしました。

下巻で一番驚いたのは、物語が第10章になったら、いきなり10年が経過していたことです。幼かった子供たちも、その頃には立派な青年になっていました。そして、唐突に新たな遭難者の存在が明らかになります。ミス・ジェニーというイギリス娘が、ロビンソン一家の近くで暮らしていたのです。

長男のフリッツは、父から一人前扱いされて自分の判断で行動することを許されていました。そしてフリッツは、カヤックを使ってミス・ジェニーのところまで出向き、彼女を彼らのところに迎え入れたのです。

さらにロビンソン一家は、近くに船が来ていることを知りました。それは難破船の捜索のために派遣された、イギリスの船でした。その船は、船体が傷ついていました。ロビンソン一家はイギリス船の手助けをすると共に、船に乗っていた病気の機械技師に自分たちの住まいを療養先として提供しました。

そしてロビンソン一家から、長男のフリッツとミス・ジェニー、末っ子のフランツがイギリス船に乗ってヨーロッパへと帰国することになりました。お父さんとお母さん、エルンストとジャック、そして機械技師の家族が島に残ることになりました。

この島を快適な場所へと育て上げてきたお父さんとお母さんには、もう文明社会で暮らしたいという気持ちがなくなっていたのです。そしてロビンソン一家に、新たな未来が開けたところで物語は終了しました。

最後の方は展開が駆け足で、ちょっとあっけにとられましたが^^;、全体としては家族の協力で無人島生活を乗り越えてゆくところが面白かったです。・・・もっとも、これ以上ないくらい必要な物が手に入るサバイバル生活でしたけど。(^^;
文盲 アゴタ・クリストフ自伝アゴタ・クリストフさんの自伝的な作品、「文盲」を読み終えました。

ハンガリーの村に生まれた著者は、自分の意志によってではなく、外部から強制される形でドイツ語、ロシア語、フランス語を学ばなければならない状況に置かれました。自伝とはいいながらも、その時々の思いが著者自身の小説のような文体で語られていきます。

幼い頃から、本を読むことが好き、文章を書くことが好きだったのに、何度も言葉を奪われる状況が淡々と語られています。抑えられた文体だからこそ伝わってくる、言語を奪われた著者の苦しみと、生きるために新しい言語を覚えざるを得ない状況。そしてその苦しみは、当事者でなければわからないものだということ。それがとても深く心に残りました。

また「悪童日記」で描かれたいくつかのエピソードは、実際に著者とその兄との間で実際に行われたことだったのも驚きでした。90ページほどの作品ですが、読み終えた後に深く心に残るものがありました。
老人と海 (光文社古典新訳文庫)ヘミングウェイのノーベル賞受賞作、「老人と海」を読み終えました。今回読んだのは、ジュンパ・ラヒリで作品で馴染みがある、小川高義さんの翻訳されたものでした。

120ページ程の、取っつきやすい作品です。ストーリーも、不良続きの老漁師が、ようやく大物カジキと巡り会い、3日間に渡る格闘を繰り広げたあげく、港に帰る途中で鮫に襲われ、せっかくのカジキは骨だけになってしまうという、とてもシンプルなものです。

しかし、ひとたび読み始めたら、老漁師サンチャゴと彼を慕う少年マノーリンとの関係、カジキと格闘しながら独り言をつぶやき続けるサンチャゴの圧倒的な存在感。時にはサンチャゴは釣り上げようとしているカジキに話しかけたりもしますが、その内容が狂気じみているような、それでいて深い哲学的な問題を語っているようにも思える不思議さ。

そして一緒に漁に出ていないのに、サンチャゴが何度も少年はいないのだと何度も思い出すのも、サンチャゴのマノーリンに対する愛情が感じられました。そして漁に出かける前後の、サンチャゴへのマノーリンの献身ぶりからは、彼がサンチャゴを英雄として尊敬していることが伝わってきます。

ヘミングウェイの作品を読むのはこれが初めてでしたが、老いながらも孤独に闘い続けるサンチャゴの姿には著者自身の姿が重なっているように思いました。どんな強風や荒波にも崩れない、厳然とした巨大岩のような人間が描かれた物語だと思いました。またこの作品では、直接言葉として書かれていないのに、多くのことが伝わってくることにも驚かされました。
ふたつの人生 (ウィリアム・トレヴァー・コレクション)ウィリアム・トレヴァーの「ふたつの人生」を読み終えました。この本には、2人の女性を主人公とした物語が収録されています。

一作目は「ツルゲーネフを読む声」という作品です。これはメアリー・ルイーズという女性の、痛ましい半生が描かれて作品です。物語は、現在と過去が交互に語られていきます。最初はそのつながりがはっきり見えませんが、カメラのピントが合うように、次第にそれがメアリー・ルイーズの異なる時間を描いていることがわかってきます。

貧しい農家の次女として生まれたメアリー・ルイーズは、街に出て働くことを夢見ていました。しかし、彼女にそのチャンスは訪れません。ところが、ある日彼女は、街の有力な服地商人であるエルマーという中年男性に見初められます。最初はそれに戸惑いながらも、彼女は最終的にエルマーとの結婚を承諾します。

しかし2人の結婚生活は、うまくいきませんでした。エルマーは、彼女と性交渉することもなく、次第にお酒に溺れていきます。また、エルマーの2人の姉、マティルダとローズは、元々この結婚に反対だったこともあり、何かにつけてメアリー・ルイーズを非難します。

そんな中、彼女の救いとなったのは、幼い頃に恋心を抱いたこともあるいとこのロバートでした。彼は病弱で、学校に通い続けることもできませんでしたが、本を読むことで自らの世界を広げていました。

ある日、ロバートの元を訪れた彼女は、彼も幼い時から彼女を好きだったことを知りました。2人がようやくお互いの気持ちを知った夜、ロバートは心臓発作で亡くなってしまいました。

それを契機に、メアリー・ルイーズの言動もおかしくなっていきます。そして彼女は、ロバートの遺品を手に、精神病患者を収容する施設で暮らすことになったのです。

やがて時は流れ、精神病の患者も出来る限り自宅で暮らすべきという時代が訪れます。
その頃には、商人としては没落していたエルマーでしたが、彼女を引き取ることに同意します。でもその時には既に、彼女の心はロバートが読んでくれたツルゲーネフの小説を通して、ロバートの心と結びついていたのでした。

訳者の解説を読むと、この作品のバックグラウンドとして、それまでアイルランドの支配階級だったプロテスタントが衰退して、カトリックが力を増していく時代背景が重ね合わされているそうです。
しかし、個人的には、そういったバックグラウンド抜きでも十分に楽しめる、読みごたえのある作品だと思いました。

二作目の「ウンブリアのわたしの家」は、ミセス・デラハンティが巻き込まれた列車爆発事件をきっかけに、その犠牲者たちの間に不思議なつながりが生まれる様子が描かれた作品です。

今ではロマンス小説家として知られるミセス・デラハンティですが、その生い立ちは恵まれたものではありませんでした。旅芸人の両親は、生まれたばかりの彼女を、子供を欲しがっていた人に売り渡してしまいました。成長したミセス・デラハンティはその事実を知ります。その後も波瀾万丈な前半生を送ったミセス・デラハンティですが、今ではイタリアのウンブリア地方の屋敷を買い取り、近所のホテルに空きがない時に観光客を宿泊させたりして暮らしています。

そんなミセス・デラハンティは、列車で買い物に出かけた時に爆発事件の被害者になってしまいました。同じ客車に乗っていた乗客も数多く亡くなりましたが、奇跡的に生き延びた者がミセス・デラハンティの他にも3人いました。

1人は、イギリス人の元将軍で、娘とその婿と一緒に旅をしていました。ドイツ人の青年は、恋人と一緒に旅をしていました。アメリカ人の女の子は、家族と一緒に旅をしていて彼女だけが生き残りました。

爆発事件の真相は不明のまま、時が流れていきます。そんな中、ある程度ケガが回復したミセス・デラハンティは、生き延びた人たちを自分の屋敷に招いて、そこで一緒に暮らすことを思いつきました。こうして、爆発事件の犠牲者というつながりのある人たちが、彼女の屋敷で生活することになりました。

彼女たちの生活は、次第に落ち着いたものになっていきます。ところが、アメリカ人の女の子・エイミーの伯父が、彼女を引き取るためにアメリカからやって来ました。ミセス・デラハンティは、エイミーは自分たちと一緒に暮らし続ける方が、心穏やかに暮らせると考えます。エイミーの母とその兄である伯父は、伯父の再婚をきっかけに絶縁状態でした。それもあって、ミセス・デラハンティはエイミーを手元に残すことを希望しますが、その希望はかないませんでした。

この作品も、「ツルゲーネフを読む声」と同じく単純に物語が語られるわけではありません。ミセス・デラハンティの過去や小説の中の出来事、彼女が直感的に見抜いたことが物語の中に複雑に織り込まれています。物語はミセス・デラハンティの視点からしか語られないので、彼女が見抜いたと信じたことを事実なのか、それとも彼女の妄想にすぎないのか。それは最後までわかりません。

というわけで、どちらも一筋縄ではいかない作品ですが、不思議と読み始めると引き込まれてしまいました。どちらの物語も、登場人物の1人1人に存在感があるのも魅力的でしたし、人生の苦さと深みが感じられました。
スイスのロビンソン (上) (岩波文庫)アニメ「ふしぎな島のフローネ」の原作、「スイスのロビンソン(上)」を読み終えました。

「ふしぎな島のフローネ」の原作ですが、原作にはフローネは登場せず、ロビンソン一家は男兄弟ばかりです。(^^;
兄弟は、上からフリッツ、エルンスト、ジャック、フランツです。エルンストはアニメだと、お父さんの名前になってるようですね。一番年下のフランツは、アニメには登場しません。一番上のフリッツと名前が似ていて紛らわしいから削られたのかな!?(実際、本を読んでいる時に2人の名前が出てくると一瞬どっちだっけ!?と思いましたし^^;)

オーストラリアに向かって航海していた船が難破して、ロビンソン一家だけが船に取り残されてしまいました。船が座礁した側にある島で、ロビンソン一家は暮らしていくことになりました。普通なら、かなりサバイバルな状況になりますが、この作品ではロビンソン一家にとって都合のいい環境が整っています。

座礁した船にあった大量の日用品や武器、火薬などが利用できた上に、上陸した島にはジャガイモはあるわ、椰子の木はあるわ、ゴムの木、大量の岩塩など、生活に必要になりそうなものがそろっています。船に積まれていた鶏や豚、ロバなどの他に、忠実な犬たち、そして猿や鷲など次々と一家の仲間が増えていきます。

ロビンソン一家は家族で協力して、島での生活を快適に過ごすために働き知恵をしぼります。物語のメインは、その様子が克明に描かれていくことです。この本を読んでいるだけで、南の島での暮らしを垣間見ているような気がして、とても楽しむことができます。(^^)

ただ1つ気になるのは、本文に旧字体が多用されていることです。現在の漢字と似ている字は、すぐに読むことができますが、「昼」が「晝」だったり読んでいて戸惑う字も多かったです。作品の内容的が子供も楽しめるものだけに、旧字体ではなく、現在の漢字を使って再刊して欲しかったところです。

とはいえ、わkらない旧字体を漢和辞典で調べながら読み進めるのも、暗号を解読して宝探しをしているようで楽しかったですが。(^^;
オープン・シティ (新潮クレスト・ブックス)新年最初に読み終えたのは、新潮クレストの1冊「オープン・シティ」でした。

マンハッタンを歩き回る精神科の研修医ジュリアンの見た光景、思い出した記憶、その時々の思いなどが交錯しながら語られていく作品です。

大きなストーリーがあるわけではなく、現在と過去、マンハッタンからジュリアスの故郷ナイジェリアやお祖母さんを探して訪れたブリュッセルと、時も場所も自由自在に行き来します。

そんな構成の作品なのですが、読み始めたら引き込まれて、最後まで読み通しました。物語の中でジュリアンがあちこち彷徨うように、読者もそれぞれのペースで物語の中を歩き回るような感覚の作品だと思いました。

1つ1つのエピソードを楽しむのもいいですし、複数のエピソードがまとまって1つの形が見えてくるものを楽しむこともできます。そして読み通した時、心の中にいろいろなものが残っていることに驚きました。
どちらでもいいアゴタ・クリストフさんの「どちらでもいい」を読み終えました。

この本には、アゴタ・クリストフさんの25篇の短編が収録されています。1つ1つの作品は、とても短くて短編というよりショートショートといった感じです。

代表作である「悪童日記」がそうだったように、この本に収録された作品も言葉の1つ1つはシンプルなのに、読み終わった後に深い闇を垣間見たような気がしました。また全ての作品に当てはまるわけではありませんが、幻想的な言葉の響きが詩のようだなあと感じました。

時に断片のように思える文章から、著者が深い闇を抱えていることが伝わってきました。これだけの闇を抱えながら、それをどうしてこういう形で作品に出来るんだろうと驚きました。文章という形で著者の抱える闇を形にしても、その闇は薄まらないどころか、深くなるのではないかと思いました。

読み終えた後、明るく楽しい気持ちになれる本ではありませんが、読者の心に忘れられない何かを残す作品集だと思いました。
失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫)2巻を読み終えてから、5年ほどが経過してしまいましたが^^;、ようやく「失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげに I」を読み終えました。

2巻から時が経過して、主人公はパリで暮らしています。パリには、スワンとスワン夫人となったオデット、そしてその娘のジルベルトも暮らしています。"私"は、何とかジルベルトと親しくなり、スワン家に出入りできるようになりたいと思います。しかし、それはなかなかうまくいきません。

そんな物語と平行して、"私"が見たお芝居や文学、パリの社交界の様子などが描かれていきます。そして念願かなって、ついに"私"は、ジルベルトのおやつの時間に招かれることができました。"私"はジルベルトに惹かれながら、もう1つの興味の対象であったスワン家の様子を詳しく知ることになります。またスワン家を訪れたことによって、"私"は心酔していた作家のベルゴットとも知り合うことができました。

"私"とジルベルトの関係は、悪いものではありませんでした。ところが、ジルベルトの不機嫌に、"私"も不機嫌で応じてしまったことから、2人は仲違いしてしまうのでした。"私"は本心では、ジルベルトのことが好きでたまらないのに、あえて彼女から距離を置きます。

それが原因で、2人の関係はますます疎遠になってしまうのでした。しかし、ジルベルトの母であるオデットと"私"の関係は続いているという、ちょっと不思議な状態が生まれます。

そしてある日、"私"はジルベルトが別の男の子と連れだって歩いているのを目撃してしまうのでした。それが引き金になって、"私"の初恋はあっけなく終わりを迎えます。

基本的な物語としてはシンプルですが、"私"の心の動きや見たものからの連想が広がっていくのが凄いです。
とはいえ、それが物語の読みづらさにもつながっていて^^;、"私"の思考が連続しているため、あまり改行もなく、ほぼ区切れることなく物語が続いていきます。1冊を一気に読めればいいのですが、普通は読者はどこかで一区切り入れたくなります。しかし作品自体に区切りが設定されていないので、それがとても難しかったです。

結局、この5年の間に何度か手にとって読み始めたものの、途中で挫折するを繰り返していました。今回ようやく読み切ることができたのは、自分で内容的に区切りがついたと思ったら、そこでいったん読むのを停止することにしたからでした。

しかし、それだけの苦労をしても、読み終えることができてよかったと思いました。1800年代終わりのパリの社交界の描写も興味深かったですし、芸術に対する著者の博識さや考え方に驚かされました。
バウドリーノ(下) (岩波文庫)ウンベルト・エーコの「バウドリーノ(下)」を読み終えました。

上巻でたびたび言及された、司祭ヨハネの王国。下巻ではついに、バウドリーノがその幻の王国を目指して旅立つことになります。それに先立ち、バウドリーノは実の父の死を見守ることになりました。その父が残した粗末な椀、それをバウドリーノは司祭ヨハネに献上するグラダーレにしたのでした。

そして養父であるフリードリヒと共に、バウドリーノは十字軍に加わり東方を目指して旅立ちました。その度の最中、フリードリヒは不思議な城で命を落とすことになりました。完全な密室だった部屋で、フリードリヒは謎の死を遂げたのです。

その真相もわからぬまま、その意思を受け継いだバウドリーノは12名の仲間と共に司祭ヨハネの王国を目指します。そこへ彼らを案内するはずだったゾシモスは、フリードリヒの死と時を同じくして、どこかに姿をくらましました。それと同時に、ヨハネの元に持参するはずだったグラダーレも消えてしまいました。

バウドリーノたちは、ゾシモスがフリードリヒを殺してグラダーレを持ち去ったと考え、ゾシモスが向かったであろう東方への旅を急ぐのでした。そして、このあたりから物語の雰囲気が一変します。それまでは実在する場所も踏まえた内容だったのが、バウドリーノたちの前に現れる不思議な土地や住人の登場で、一気にファンタジー小説のような不思議な世界が描かれます。

そしてプンダペッツィムに到着したバウドリーノたちは白フン族との戦いに備えたり、一角獣を連れた美しい女性ヒュパティアとバウドリーノとの出会いがありました。バウドリーノとヒュパティアには愛情が芽生え、2人の子供をヒュパティアは身ごもります。しかし、白フン族との戦いが本格的にはじまり、バウドリーノとヒュパティアは別れ別れになってしまうのでした。

そしてバウドリーノは、白フン族との戦いで混乱するプンダペッツィムから、元の世界を目指して帰還することになりました。ところが、その度の途中で彼らは犬頭人の捕虜となり、その地で奴隷として強制労働させられることになってしまいました。

そんな生活が長く続きましたが、バウドリーノたちは監視の隙を突いて、そこから脱出することに成功しました。そしてバウドリーノは、彼の話の聞き手であるニケタスのいるコンスタンティノープルへと到着したのでした。しかし、その時コンスタンティノープルは攻め滅ぼされようとしていました。

偽の聖遺物を作り上げて資金を得たバウドリーノたちは、混乱するコンスタンティノープルからの脱出を計画します。しかし、それが実行される前にバウドリーノの前に消えたグラダーレとフリードリヒの死の真相という問題が現れます。
その結果、バウドリーノはある人物を殺めることになるのでした。そして、そんなバウドリーノがニケタスを救ったのは、その事件が終わった後のことでした。

こうしてバウドリーノの長い物語は、ようやく語り手のニケタスのいる時代へとつながりました。ここで物語は、もう一転するのですが、これ以上はネタバレになるので書かずにおきます。(^^;

というわけで、バウドリーノの物語も完結です。読み始めた当初は、これだけ内容の濃そうな本を最後まで読み通せるか不安もありましたが、読み始めてみたらその内容の面白さに引き込まれました。バウドリーノの語った物語には、ほら話も数多く含まれているのですが、現実と嘘が交錯する不思議な世界が展開しているのも魅力的でした。
バウドリーノ(上) (岩波文庫)ウンベルト・エーコの「バウドリーノ(上)」を読み終えました。

ウンベルト・エーコの作品は「薔薇の名前」の頃から興味があったのですが、これまで読む機会がありませんでした。
それが今回、初めてエーコの作品に手を出せたのは、文庫という形で発売されていたからです。文庫サイズだと、気軽に持ち歩いて、ちょっとした空き時間に読むことができるのがいいですね。(^^)

物語は主人公のバウドリーノが、手に入れた羊皮紙に書かれていた文字を削って、自らの記録を残そうとしているところから始まります。それが彼独自の言葉で書かれた、彼自身の物語でした。ところが、その物語を彼は失ってしまうことになります。

そして舞台は、いきなり13世紀のコンスタンティノープル陥落へと飛びます。既に壮年になっていたバウドリーノは、そこでビザンツ帝国の書記官長をつとめた、ニケタス・コニアテスという人物を救いました。コンスタンティノープルで略奪が行われる中、バウドリーノの用意した隠れ家に潜んだニケタスに、バウドリーノは自分の奇妙な生涯を聞き、記録して欲しいと頼みます。

こうして物語は、バウドリーノの過去が語られつつ、時折それが語られている時代へと帰りを繰り返しながら進んでいきます。ここで面白いと思ったのは、バウドリーノがニケタスに状況を語るうちにも、彼らを取り巻く状況が刻々と変化している様子も描かれていることです。上巻の最初は、隠れ家に潜伏しているバウドリーノとニケタスでしたが、状況の変化によって、街からの脱出計画も進んでいるのです。

そしてバウドリーノは、ニケタスに自分の生い立ちから話し始めます。バウドリーノは、元々はイタリアの貧しい農民の息子でした。そんなバウドリーノの運命は、神聖ローマ皇帝フリードリヒと出会ったことで大きく変わります。フリードリヒはバウドリーノを気に入って、彼を自分の養子として迎え入れたのです。

そこからのバウドリーノの人生は、波瀾万丈です。イタリアの都市国家をすべて自分の支配下に置こうとするフリードリヒの戦いを目撃し、フリードリヒの新たな妻として迎えられたベアトリスに恋心を抱くようになり、その思いを振り切るようにパリに学びに出かけ、個性的な友人たちと知り合い、フリードリヒの権力を強化する後ろ盾として、はるか東方にある司祭ヨハネの王国をでっち上げます。

でっち上げた王国は、すぐには役に立ちませんでしたが、後年それが思いもかけない形でバウドリーノの運命に関わってくることになります。そして、その幻の王国への地図を持っていると言う修道士ゾシモスの裏切りと再会。そしてゾシモスの口車に乗せられて、バウドリーノたちは幻の王国への旅を計画します。

というところまでが、上巻での展開でした。史実とフィクションが交錯して、その上にバウドリーノの過去とコンスタンティノープルでの物語もあり、とても込み入った構成の物語です。しかし、小さなエピソードの1つ1つが面白くて、どんどん続きを読みたくなるような物語です。

このように複雑に織り上げられた物語が、最終的にどんな形を見せてくれるのか、とても楽しみです!(^^)
人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)新潮クレストの新刊、ジュリアン・バーンズの「人生の階段」を読み終えました。

この本は、まず表紙の真っ赤な気球が目にとまりました。カバーの紹介を読むと、愛する奥さんを亡くした作家の回想録らしいです。

ところが、第1部の「高さの罪」を読み始めると、そこで描かれているのは気球の歴史と気球から撮影された神瞰図のような写真についてでした。不思議に思いながら読み進めると、第2部の「地表で」は、第1部に登場した軍人バーナビーと女優ベルナールの恋物語が描かれます。第1部が歴史的な出来事を描いたものだったので、第2部も本当にあったことなのかと思ったら、こちらはバーンズの空想による小説だと「あとがき」を読んでようやく理解しました。

そして第3部「深さの喪失」で、バーンズの亡き妻への思いと、妻を失った後の様々な思索が語られていきます。
この3部を読んで、ようやく第1部と第2部とのつながりが見えてきました。妻と過ごした日々は、気球で天に昇っていたような幸福に包まれています。それがある日、妻の死という出来事により地上へと墜落してしまいます。

どのパートも、1つのまとまったストーリーというより、大きなストーリーの中から慎重に抜き取られたストーリーの断片で構成されている感じです。そのため人物の視点や時代、場所を自由に飛び回ります。読み始めた最初は、この構成に戸惑いましたが、読み進めるにつれて、こういった手法も面白いと思うようになりました。
第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)アゴタ・クリストフさんの「ふたりの証拠」の続編、「第三の嘘」を読み終えました。この3作目で、「悪童日記」から始まるシリーズが一応完結します。

前2作と同様、何が真実で何が偽りなのか、不安定に揺らめきながら物語は進みます。そして、最終的にすべての真相らしきものが明らかになります。・・・でも、この結末はちょっと不満かも。(^^;

ネタバレになるので作品の詳細には触れませんが、「ふたりの証拠」がリュカの物語なら、「第三の嘘」はクラウスの物語といえます。第1部と第2部の間に、ちょっとした仕掛けがあってその部分は面白かったのですが、最終的に明かされた真相が意外とありきたりで、ちょっと期待外れな感じでした。

この作品でも、現実と夢が交錯するような不思議な雰囲気は健在ですが、下手に種明かしをせず、どこまでも不思議な物語であって欲しかった気がしました。
ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)アゴタ・クリストフさんの「悪童日記」の続編、「ふたりの証拠」を読み終えました。

「悪童日記」のラストで、それまで常に一緒にいた"ぼくら"は、1人は小さな町に残り、もう1人は町を出て外の世界へと向かいました。前作では、登場人物の名前は不明でしたが、この作品では"ぼくら"の名前も明らかになります。

小さな町に残ったのは、リュカという少年です。1人になっても、リュカは祖母の家で今までと同様の暮らしを続けます。しかし、やがてそこにも変化が訪れます。実の父の子供をはらんでしまったヤスミーヌとの出会い。そして、ヤスミーヌの子供で障害のあるマティアスとの共同生活。しかしヤスミーヌは、やがてマティアスを残して、大きな町へと行ってしまいます。

そしてリュカは、小さな町にある図書館の司書クララとの出会います。彼女は発禁処分される本を密かに自宅に持ち帰り、読んでいます。クララにまとわりついたリュカは、やがてクララと関係を持つようになります。そしてクララの夫が、無実の罪で殺されたことを知ります。

前作でも"ぼくら"がノートや鉛筆を買いに出かけた本屋のヴィクトールは、リュカにお店を売って1冊の本を書き上げるために、故郷の姉と一緒に暮らし始めます。しかし、本を書くのに没頭できるはずのヴィクトールは、やがて破滅的な死を迎えることになります。

本屋に住むようになったリュカは、マティアスを学校へと通わせます。しかし学校では、マティアスは障害による醜さから、他の子供たちのいじめの対象となります。しかし、どんなに痛めつけられても、マティアスは学校に行くことをやめようとはしません。ところが、リュカの前に美しい少年が現れた時、リュカの心がその子に奪われたと思い込んだマティアスは自ら死を選びます。

そして、ここで唐突に物語の視点が変わります。小さな町から出て行ったもう1人の少年、クラウスが町に帰ってきたのです。しかし、クラウスが帰ってきた時、そこにリュカの姿はありませんでした。そればかりか、リュカが本当に実在したのか、本当はクラウスこそがリュカなのではないかという疑問が生まれます。

前作にも驚かされましたが、この作品にはさらに驚かされました。前作とは違い、この作品では、"ぼくら"に名前が与えられました。しかし、最後まで読み進むと、本当にリュカが存在したのか、リュカは実はクラウスの作り出した幻ではないかという疑問が生まれます。そして1人の人間が確かに実在するとはどういうことか、深く考えさせられました。
悪童日記 (ハヤカワepi文庫)アゴタ・クリストフさんの「悪童日記」を読み終えました。

戦争が激しくなり、双子の「ぼくら」は母方のお祖母さんの家で暮らすことになりました。お祖母さんは自分を見捨てるように去った娘が、双子を連れてきたことを喜びません。そればかりか、お祖母さんは自分の夫を毒殺した疑いがあり、同じ町に住む人々からは「魔女」と呼ばれていたのでした。

お祖母さんは、「ぼくら」に対して愛情を示しません。彼らが自分の言いつけどおり働かなければ、食べ物さえ与えません。閉鎖的な小さな町の中で、「ぼくら」は生き抜くためにさまざまな知恵を身につけていくことになるのでした。その様子が子供向けの物語のような語り口で、淡々と描かれていきます。

「ぼくら」の側にいるのは、どこか壊れてしまったような人たちばかりです。そして、戦争はさらに拡大して特定の人種の差別や虐殺が行われます。その様子も、「ぼくら」は淡々と書き留めます。やがて戦争は終わりますが、その後にやって来たのは、戦争の時と変わらぬ過酷な現実でした。

そして物語は、双子の1人が別の世界へと旅立つところで終わります。それまでずっと一緒だった双子が、分かれて生きることを決意したのはなぜなのか。余韻はあるけれど、不思議な物語の結末でした。
この物語には、2冊の続編があるようなので、そこで理由が明かされることになるのでしょうか!?

作品の雰囲気は童話的ですが、そこで描かれているのはとても残酷です。双子と東欧が舞台らしい物語ということで、浦沢直樹さんの漫画「MONSTER」を思い出しました。

読んでいて1つだけ気になったのは、作中に翻訳者の余計な訳注が数多く入っていることでした。こういった読み解きは、読者それぞれが行えばいいことで、訳注として本文に埋め込む意味はないと思いました。
著者があえて、国名などを具体的に示さないことで描いたことを、台無しにしてしまっていると思いました。
ボート (新潮クレスト・ブックス)ナム・リーさんの「ボート」を読み終えました。

この本には、7作の短編が収録されています。しかし、その1つ1つが個性的で、複数の作家が書いた作品を集めた本なのではないかと何度も思いました。そして物語の舞台も、北米、オーストラリア、南米、中東、日本、東南アジアと多彩です。

「愛と名誉と憐れみと誇りと同情と犠牲」は、ベトナム移民で作家志望の青年とその父の物語です。主人公の青年は、作品を書きあぐねていました。彼の出自を知る人は、それをテーマに作品を書けばいいといいます。しかし、彼はそうすることに抵抗を感じていました。彼は父ほどに深く、ベトナムとのつながりを実感できないでいたのです。

そこに、彼の父がやって来ました。その時、彼は書きあぐねた末に、ベトナムを扱った作品を書き上げました。彼の父はその作品を手に、街へと出向くと、浮浪者が暖を取っていたたき火に、その作品を投げ込むのでした。
短い作品ですが、故郷を知らない青年と、異郷にあっても故郷を背負っている父の、深い断絶が印象的でした。

「カルタヘナ」は、コロンビアで暗殺者となった少年を描いた作品です。前の作品とは完全に雰囲気が変わり、ハードボイルドなサスペンス小説を読んでいるような感じでした。7作の中では、この作品が一番読みやすいと思いました。

「エリーゼに会う」は、痔を患う老画家が、妻と一緒に家を出た娘と再会しようとする物語です。老画家のダメっぷりが、これでもかとばかりに描かれているのですが、サイケデリックな雰囲気もあるブラックな作品でした。

「ハーフリード湾」は、オーストラリアに住む少年が主人公のお話です。彼の活躍によって、彼の学校は久々にフットボールの決勝戦に進むことができたのです。彼は一躍注目の的となり、憧れていた女の子も彼に声をかけてきます。ところが、その女の子は、悪評が高く凶暴な同級生と付き合っているという噂が・・・。

その一方で、少年の家庭事情も描かれます。彼の母は、多発性硬化症という難病に冒されていたのです。母の治療のため、父は今の家を売り、よりよい治療が受けられる場所への移住を考えていました。
同級生からの暴力の恐怖、難病の母を抱えた不安定な生活。物語は淡々と語れていきますが、この2つがあることで緊張感が維持されています。

「ヒロシマ」は、なんと原爆投下前の広島を舞台にした作品です。主人公の女の子は、戦災を避けて疎開していますが、彼女の父母と姉は、今も広島に暮らしています。主人公の女の子も、そしてそれ以上にお姉さんも、徹底的に軍国主義に染まっています。著者名を伏せてこの作品を読んだら、海外の作家が書いたものとは思わなかったかも。

「テヘラン・コーリング」は、付き合っている男から逃げるために、テヘランの友人の元に訪れるアメリカ人女性の物語です。そこで彼女は(そしてたぶん読者も)、これまで知らなかった自分たちとは全く異質なイスラム文化と対面することになります。

表題作である「ボート」は、ベトナムから脱出する難民ボートに乗り込んだ女の子の物語です。小さなボートに詰め込まれるように乗り込んだ、多くの人々。エンジンも停止し、ボートは海上を漂い、その渦中で1人また1人と命を落としていく人がいます。これは今もまだ、世界のどこかで現実に起きているかもしれないこと。そう気づいた時、今の自分がどれほど豊かでふやけた世界にいるかを思い知らされました。

著者のこの他の作品は、邦訳が出ていないようですが、ぜひ他の作品も出版して欲しいと思いました。
幻滅 ― メディア戦記 上 (バルザック「人間喜劇」セレクション <第4巻>)先に読んだ「読んでいない本について堂々と語る方法」で紹介されていた、バルザックの人間喜劇と呼ばれる作品群の1つ、「幻滅 - メディア戦記 - (上)」を読み終えました。

物語はフランスの片田舎、アングレームと呼ばれる町から始まります。アングレームは貴族が住む高台と、平民が住む下町からなっています。その2つは、互いに反目していましたが、アングレームの中心人物であるバルジュトン夫人は、貧しい平民であるリュシアンという青年を寵愛していたのでした。

リュシアンは、美貌と才能に恵まれた青年でした。バルジュトン夫人と関係ができたことを機会に、大物になってやろうという野心もあります。そんなリュシアンの美貌と才能は、田舎で暇をもてあましていたバルジュトン夫人にとって、格好の気晴らしになっていたのでした。

しかし、2人の関係を妬む者がいました。かってパリで名をはせたこともあるデュ・シャトレという男です。デュ・シャトレは表面上はリュシアンやバルジュトン夫人に協力する風を装いつつ、その実は彼らを利用して自分が再び表舞台に返り咲こうとしていたのでした。

そんなデュ・シャトレの企みにはまり、バルジュトン夫人はアングレームに居づらい状況に追い込まれました。ほとぼりを冷ますため、バルジュトン夫人はパリへと向かうことにしました。そしてリュシアンにも、それに同行するように求めたのでした。リュシアンは妹の夫となった友人・ダヴィッドの協力を得て、バルジュトン夫人と共にパリへと赴きます。

そこでリュシアンを待っていたのは、思いもかけない上流階級の底意地の悪さでした。デュ・シャトレの巧みな策略にはまり、リュシアンはパリでバルジュトン夫人に愛想を尽かされて、路頭に迷うことになるのでした。それでも自分の才能を信じるリュシアンは、持参した原稿を出版してもらおうとします。しかし、ここでも厳しい現実がリュシアンを待っていました。

内容的にどんなに優れた本であっても、出版業者は名もなき新人の本を出版する危険を冒そうとはしなかったのです。
追い詰められたリュシアンを救ったのは、貧しいながら高い志を持つセナークルと呼ばれる仲間たちでした。彼らの励ましとアドバイスを受けて、リュシアンは自分の作品と才能にさらに磨きをかけるのでした。

しかし、リュシアンがどれだけ勉強しても、生活の苦労は常につきまといます。そこでリュシアンは、ジャーナリストになって身を立てようとします。セナークルの仲間は、それはリュシアンを堕落させることだと反対しますが、リュシアンは知人のルストーを頼り、新聞に劇評を書くことになったのでした。

今までにない斬新なリュシアンの劇評は、パリで大いに話題になりました。さらに劇に出演している若手女優コラリーの支援もあり、リュシアンはこれまでとは全く異なる、晴れやかな舞台に立つことになるのでした。

その過程でリュシアンは、新聞などのメディアの本質を知ることになりました。彼らは真実を伝えようとしているのではなく、自分たちの思惑を読者に吹き込むだけの存在だったのです。内容的にどれほど素晴らしい本も、彼らの利害と一致しなければ酷評されることになります。逆に彼らの利益のためには、特にみるべき点のない作品も好評で迎えられることになるのでした。

上巻では、アングレームから出てきたリュシアンが、メディアという様々な思惑の渦巻く坩堝に飛び込むまでが描かれました。一癖も二癖もある人たちを相手に、リュシアンは自らの野望を果たすことができるのでしょうか。

読み始めた最初は、現代の小説とは違う文体に少し戸惑いましたが、しばらく読み進めたらバルザック流の語りにも慣れました。
この語り口は、昔どこかで読んだことがあるようなと思ったら、「三銃士」や「モンテクリスト伯」で有名なアレクサンドル・デュマの作品でした。2人の活躍した時期が重なっているようなので、1830年〜1850年くらいのフランスでは、こういった文体が一般的だったのかもしれませんね。
三文オペラ手塚治虫さんの「七色インコ」のおかげで、タイトルを覚えていたブレヒトの「三文オペラ」を読み終えました。

大勢のギャングを率いているメッキは、乞食同友会の社長であるピーチャムの娘ポリーを誘惑して結婚式を挙げてしまいました。乞食同友会というのは、多くの乞食たちを管理する団体です。特定の地区に乞食が集中しないように、それぞれに担当区域を割り振ったり、より哀れみを誘うための衣装を貸し出し、その見返りとして稼ぎの何割かを徴収しています。

ケチなピーチャムは、娘を金持ちに嫁がせようと考えていました。それが娘が勝手にメッキに熱を上げてしまったので、腹を立てています。しかもメッキは、本気でポリーのことを愛しているわけではなく、複数の女性と関係を持っていたのでした。

ギャングとしても荒稼ぎしているメッキですが、なぜか警察には逮捕されません。それは警視総監であるブラウンが、メッキの昔からの友人だからでした。メッキが罪を犯しても、ブラウンがそれを握りつぶしていたのでした。その見返りに、メッキは稼ぎの一部をブラウンに渡していたのでした。

メッキと警視総監が友人であることを知っても、ピーチャムの怒りはおさまりません。そこでメッキの娼婦の1人を買収して協力者にして、ついにメッキを逮捕させたのでした。しかしメッキは、別の愛人の力を借りて牢獄から逃げ出してしまうのでした。

すぐに遠くに逃亡すればいいのに、またしてもメッキは別の愛人のところに転がり込みます。それを知ったピーチャムは、女王の戴冠式を乞食を動員して妨害するとブラウンを脅して、再びメッキを逮捕させるのでした。そしてついに、メッキの処刑が行われようとしています。

さすがのメッキも、今度ばかりは腹をくくります。いよいよ処刑が始まるという時、騒動を知った女王からメッキに恩赦を与えるようにという命令が届きます。そればかりか、城や年金まで与えて、その後の生活まで保障してくれるのでした。現実には起きそうもないことが起きる、三文オペラゆえの結末でした。

実際に舞台で演じられることを想定して翻訳されているので、セリフのテンポが良くてとても読みやすかったです。
物語の合間に入る、いろいろな歌も楽しいですね。ただ本では、どんなメロディーで歌われるかまではわからないので、実際の歌を聴いてみたくなりました。

物語の内容としては、数少ない富者が多くの利益を独占して多くの貧者が生まれている、という現代にも通じるものでした。貧者の中にも、ピーチャムのようにさらに貧者が利用される構造が出来上がってしまうのが、さらに悲惨ですね。
ヘルマン・ヘッセ全集 (13) 荒野の狼・東方への旅「荒野の狼」と共に、ヘルマン・ヘッセ全集13巻に収録されていた「東方への旅」を読み終えました。

物語の主人公は、H.Hというイニシャルを持つ男です。彼はかって、とある結社へと所属していました。結社の中からメンバーを選りすぐり、東方への旅が行われることになりました。しかし、その旅は途中で頓挫してしまい、H.Hが所属していた結社も瓦解してしまいました。

H.Hは、そんな結社のことを記録に残そうと思い立ちました。結社には様々な禁則事項がありましたので、それに触れない形で記録はまとめ上げる必要がありました。そして結社の行った東方への旅が、なぜ失敗してしまったのかが語られていきます。

失敗の最大の原因は、彼らに従者として同行したレーオの失踪から始まっていました。レーオがいなくなった時、結社のメンバーは必死でレーオを探しました。しかし、どうしてもレーオを発見することができず、数々の口論を繰り返したあげく、集団は瓦解してしまったのでした。

ところが、ある友人の助言によって、H.Hはレーオを発見することになります。そして、これまで彼が真実だと思っていたことこそが、彼自身が作り上げた妄想だということが明らかになるのでした。

物語の後半で、それまでH.Hが語ってきた事実が反転する展開が面白かったです。
この作品も「荒野の狼」と同じく、主人公は著者の分身ともいえる存在です。著者以外にも、著者の友人や物語の登場人物が作中に顔を出していて(「知と愛」のゴルトムントなども登場します)、ヘッセの作品を読んでいるほど楽しめる作品だと思いました。(^^)
ヘルマン・ヘッセ全集 (13) 荒野の狼・東方への旅ヘッセの「荒野の狼」を読み終えました。

この作品は、学生時代に読んで衝撃を受けました。その時は新潮文庫の高橋健二さんの翻訳を読みましたが、今回は臨川書店のヘルマン・ヘッセ全集13巻に収録されている里村和秋さんの翻訳されたものを読みました。

臨川書店のヘッセ全集は、複数の翻訳者が担当しているため、巻によって当たり外れが大きい印象がありますが、里村さんの翻訳は現代的で読みやすかったです。

主人公のハリーは、高い教養を持ちながら、市民生活との折り合いが悪く、孤独な生き方をしている男です。
物語は、ハリーと多少親しくした男性=編集人による、ハリーという人物の観察。ハリーの書いた、「荒野の狼」についての論文。そしてメインとなる、ハリーが残した手記から構成されています。

編集人によるハリーの描写は、第三者の視点からハリーが描かれます。ハリーの論文ではハリー自身により、自己分析が行われます。最後の手記が一番長いのですが、最初はハリーの日常が描かれていますが、ヘルミーネという女性と出会ってからは、日常と幻想が交錯したような不思議な雰囲気が漂い始めます。終盤の仮面舞踏会と魔法劇場の描写は、サイケデリックの先駆けのような気がしました。

昔読んだ時、この作品の何に惹かれたのか考えてみると、「死に憧れながらも、自殺する勇気はない」ハリーに共感していたんだと思います。世間と上手く折り合おうと思いながらも、世間の軽薄さは嫌悪せずにはいられない。そんなハリーの心情は、この本を読んだ時の自分自身の心情と重なるものがありました。

今回もハリーに共感しつつ読み進みましたが、以前よりはもう少し客観的に物語を見ることができたように思います。
主人公のハリーは、著者であるヘッセの分身ともいえる存在ですが、彼を変えようとするヘルミーネという存在も、ヘッセ自身の別の一面だと思いました。

作中のハリーの手記にもありますが、人間は確固とした揺るがない存在ではなく、様々な面の重なり合いで常に揺らいでいます。ある状況である一面が強調されることはあっても、それがその人の本質というわけではなく、その時に強調された一面でしかない。

この作品は、そんなヘッセの様々な部分の集合体(でも、全てではない)なんだなあと思いました。
誰もいないホテルで (新潮クレスト・ブックス)新潮クレストから発売された、スイス人作家ペーター・シュタムの「誰もいないホテルで」を読み終えました。

この本には、10作の短編が収録されています。本のタイトルにもなっている「誰もいないホテルで」、「自然の成りゆき」、「主の食卓」、「森にて」、「氷の月」、「眠り聖人の祝日」、「最後のロマン派」、「スーツケース」、「スウィート・ドリームズ」、「コニー・アイランド」の10作です。

原題は、ほとんどの物語の舞台となっている、ボーデン湖畔にあるゼーリュッケンという丘陵地帯の地名だそうです。
日本人にはその名は馴染みがないので、1作目の「誰もいないホテルで」(これも原題は、ゴーリキーの戯曲にちなんで「夏の客」というタイトルだそうですが)が、本のタイトルに選ばれたそうです。
「誰もいないホテルで」というタイトルは、そこから想像がいろいろと広がる、とてもいいタイトルだと思います。(^^)

どの作品も適度な長さで(最後の「コニー・アイランド」だけは3ページほどと短くて驚きましたが^^;)、サクサクと読み進むことができました。様々な視点から物語が語られていますが、その核となっているは”孤独"のような気がしました。家族や友人、知人といる時、人混みの中にいる時でも、人はふいに孤独を感じることがあります。この短編集を読んでいると、その時の孤独感に通じるものが感じられるような気がしました。

収録されている作品の中では、アナという不思議な女性が登場する「誰もいないホテルで」、家庭崩壊した家から逃げ出し森で生活したことがあるアーニャの物語「森にて」、1人で有機野菜を栽培している農夫の物語「眠り聖人の祝日」、物語で描かれる人物と物語を描く作家が交錯した不思議な余韻のある「スウィート・ドリームズ」が好みでした。
完訳 ハックルベリ・フィンの冒険―マーク・トウェイン・コレクション〈1〉 (ちくま文庫)マーク・トウェインの「ハックルベリ・フィンの冒険」を読み終えました。

池澤夏樹さんの「世界文学を読みほどく」を読んだことがきっかけで、ついにマーク・トウェインの「ハックルベリ・フィンの冒険」を読むことができました。池澤さんが紹介されていた本が、加島祥造さんの翻訳によるものだったことも、読み切ることができた大きな理由でした。

物語は、「トム・ソーヤーの冒険」の後日談として始まります。トム・ソーヤーとの冒険で大金を手に入れたハックでしたが、大酒飲みで暴力を振るう父親から虐待される生活は続いていました。そんな父から逃れるために、ハックは自分が死んだように装って、ミシシッピー川を下る冒険へと出かけることになるのでした。

ところが、その途中でハックは知り合いの黒人奴隷ジムと出会いました。ジムは家族と離ればなれにされて、他に売り飛ばされるのが嫌で逃げ出してきたのです。そんなジムと一緒に、ハックは川を下る旅を続けることになりました。最初はカヌーで旅していたハックですが、途中で大きな筏を見つけてそれに乗って冒険を続けることになりました。

この時代、南部では黒人奴隷の売買が当然のように行われていました。しかしジムと旅する中で、ハックはジムの優れた人間性に気づいていくことになります。その当時黒人が自由になれるのは北部だけでした。しかし、ハックたちの筏は南へ南へと進んでいます。果たしてジムは、自由の身になれるのか、それが物語を読み進める力になりました。

ところが、途中から物語はおかしな方向に進み始めます。ハックとジムの旅に、詐欺師の王様と公爵が加わると、物語がそれまでのように面白くなくなりました。さらにハックが、トムの伯母の家へとたどり着き、そこでトムと再会すると、物語は決定的につまらなくなりました。

せっかくここまで読んだからと、何とか最後まで読み通しましたが、この物語が最初から最後までハックとジムの冒険物語だったらと思わずにはいられませんでした。「あとがき」を読むと、ヘミングウェイもこの本の31章以降はごまかしだと言っていたそうですから、後半がつまらないと思うのは私だけはなさそうです。(^^;
知と愛 (新潮文庫)ヘッセの「知と愛」を読み終えました。学生時代にも読んでいるので、今回が二度目の読書になります。

原題は「ナルチスとゴルトムント」です。精神の道を追求するナルチスと、芸術の道を突き進むゴルトムントの2人を主人公とする物語に、翻訳者の高橋健二さんは「知と愛」という、それぞれを象徴するタイトルをつけられました。
翻訳が機械的に言葉を自国語に置き換えるものでなく、翻訳者という人間を通して行われるものだからこそ、翻訳者が原文から読み取った作者の精神を、その時代の自国の読み手によりわかりやすい言葉で伝えることは、意義のある改編だと思います。

物語は、精神の人として生きるべく、ゴルトムントがマリアブロン修道院へと送り込まれたところから始まります。そこでゴルトムントは彼の導き手となる若い師・ナルチスと出会います。2人は、やがて友情という深い絆で結ばれることになりました。

そしてナルチスは、ゴルトムントが精神の道を追求する人間ではなく、芸術の道を進むべき人間であることに気づかせました。自分の本性を見つけたゴルトムントは、修道院を抜け出して放浪の旅に出ることになるのでした。各地で様々な女性と愛し合い、様々な死の目撃者となったゴルトムントは、やがて彫刻という表現手段を獲得しました。

彫刻の親方にも認められる腕前になったゴルトムントでしたが、彼の中にある放浪への強い衝動は、1つの街にとどまって生きることを望みません。再び旅に出たゴルトムントは、ペストによる悲惨な死、そしてついに投獄されて彼自身の身にも死が迫ります。

そんなゴルトムントを救ったのは、放浪中も忘れることなく思い続けた友人ナルチスでした。ナルチスは精神の道を進み、かって2人が出会ったマリアブロン修道院の院長となっていたのです。芸術家として、創作する場所を求めていたゴルトムントに、ナルチスは修道院の一角に彼のための場所を用意してくれました。こうしてゴルトムントは、ナルチスの元で素晴らしい作品を作り上げるのでした。

しかし、1つの作品を作り上げた後、またもゴルトムントは放浪を激しく渇望するようになります。既に彼は、かっての若さや力を失っていました。しかし、彼は出かけずにはいられませんでした。こうして再び、ゴルトムントはナルチスの前から去りました。

次にナルチスとゴルトムントが再会した時、ゴルトムントは老いて病み、死を間近にしていました。そんな中にありながらも、ゴルトムントの心は平静でした。こうしてゴルトムントは、ナルチスに看取られながら息を引き取ります。
このラストシーンは、静謐で美しく心に染みいるようでした。

ヘッセ自身が芸術家ですので、物語の重心が芸術家=ゴルトムントに置かれるのは必然ともいえます。学生時代に読んだ時は、そんなゴルトムント中心の物語を楽しみました。しかし、今回は同じようにゴルトムントの物語を楽しみつつも、その間にナルチスがどんな生き方をしていたのか知りたいと、強く思いました。
鳥たちが聞いているバリー・ロペスの「鳥たちが聞いている」を読み終えました。

この本は、池澤夏樹さんが紹介されているのを読んで知りました。読んでいると自然と向き合っているような気持ちになり、ちょっと不思議や幻想性さえ感じられる12編の短編が収録されていました。

表題作の「鳥たちが聞いている」から始まり、「ティールの川」「エンパイラのタペストリー」「空き地」「ある会話」「ピアリーランド」「台所の黒人」「ウィディーマの願い」「我が家へ」「ソノーラ 砂漠の響き」「クズリの教え」「ランナー」と続きます。

どの作品も自然との関わりが感じられるますが、個人的に気に入ったのは「ウィディーマの願い」と「我が家へ」でした。「ウィディーマの願い」では、未開の狩猟部族を研究しようとした青年が、ウィディーマ族と出会い世界に対する認識を新たにするお話です。「我が家へ」は、1つの論文をきっかけに有名な研究者となった青年が、自分の研究よりも大切な身近な自然に気づくお話です。

「ウィディーマの願い」を読み終えた後は、特定の文化や知識・思想に絶対的な価値はなく、どんな人間も自然の中にただあるだけなのだと思い知らされた気がしました。「我が家へ」を読んだ後は、自分の身近なものをしっかりと知ることが、平穏さや生きる喜びにつながっているのかもしれないと思いました。
停電の夜に (新潮文庫)ジュンパ・ラヒリさんの「停電の夜に」を再読しました。

この作品を読むまで、私の読む海外文学作品は、世界文学全集に収録されているような作品が主体でした。現代の海外文学作品も凄いと気づかせてくれたのが、このラヒリさんの「停電の夜に」でした。

今回読んだのは文庫版の方ですが、新潮クレスト版も手元にあります。その時々の気分によって、文庫版と新潮クレスト版を読み分けるのも楽しみの1つです。(^^)

この本には、9編の短編が収録されています。日本での本のタイトルでもある、「停電の夜に」を初めて読んだ時の衝撃は今でも忘れられません。子供を失いすきま風が吹いている夫婦が、工事の影響で停電してしまう時期にロウソクの明かりの中で打ち明け話をする静かな物語です。

書き方によっては、もっとドロドロした内容になりそうなところを、重くなりすぎず幻想的な雰囲気さえ感じさせながら物語る語り口。そして、最終的にこの夫婦がどうなるのかという静かな緊張感が、読者を先のページへと誘います。

この他に、「ピルザダさんが食事に来たころ」「病気の通訳」「本物の門番」「セクシー」「セン夫人の家」「神の恵みの家」「ビビ・ハルダーの治療」「三度目で最後の大陸」が収録されています。個人的な好みは、「停電の夜に」と「三度目で最後の大陸」ですが、どの作品もとても質が高いです。

「本物の門番」と「ビビ・ハルダーの治療」はインドが舞台のようですが、どちらも社会の底辺にいる人物にスポットが当たっていて、読むたびに痛みを感じます。特に「ビビ・ハルダーの治療」は障害者虐待と思える描写もあり、読んでいて悲しくなります。
「三度目で最後の大陸」は今読み返すと、その後に発表された長編「低地」へのつながりを特に感じました。

今現在はラヒリさんはローマへと移住されて、英語ではなくイタリア語で創作を続けているそうです。次の作品がいつ発表されるのか、そしてそれがいつ翻訳されるのか、全くわかりませんが新作の発売を心待ちにできる作家がいるのはいいものですね。(^^)
地下室の手記 (新潮文庫)ドストエフスキーの「地下室の手記」を読み終えました。

池澤夏樹さんの「世界文学を読みほどく」を読んで、まずはドストエフスキーからと思ったものの、いきなり「カラマーゾフの兄弟」を読むのはボリュームがありすぎて圧倒されたので^^;、文庫で250ページほどのこの作品を読んでみることにしました。

物語の主人公は、元はとある官吏だったけれど、ちょっとした遺産が手に入ったことから仕事を辞めて、地下室に引きこもり生活を送っています。そんな彼が書いた手記を、著者であるドストエフスキーが世間に発表したという形式の物語です。

物語は2部構成です。第1部では、引きこもり生活をしている主人公がこの手記を書くに至った動機などを語っています。第2部は、彼がまだ官吏として働いていた時代に起きた出来事が語られます。主人公はかなり自意識過剰で、知性は高いけれど人づきあいは下手で、かなり痛々しい人間として描かれています。

読み始めた当初は、主人公のあまりの痛々しさに、読むのが辛いところもありました。しかし読み続けていくうちに、主人公の持つ痛々しさは、自分の中にもあるものではないかと思うようになりました。主人公はかなり極端な人物として描かれていますが、その高慢さ、姑息さ、醜悪さは大なり小なり、あらゆる人間が抱えているものだと感じました。
それゆえに、この作品は誰もが引き込まれる要素を持った作品だと思いました。

この作品を読んでいて、中島敦さんの「山月記」を思い出しました。そこに登場する隴西の李徴も、優秀だけれど傲慢で、下級官吏に身を落としたことが原因で、ついに発狂して虎に変じてしまいます。そんな李徴の哀れさと、「地下室の手記」の主人公の哀れさには、通じるものがあるような気がしました。

「罪と罰」でもそうでしたが、ドストエフスキーの作品は登場人物が雪崩のようにまくしたてるように話す、勢いが印象に残りますね。そのテンポの良さのおかげで、先へ先へとページを進めて、気がついたら1つの作品を読み終えていた感じです。
郷愁―ペーター・カーメンチント (新潮文庫)久しぶりにヘッセの「郷愁 ペーター・カーメンチント」を読み終えました。

今回読んだのは、新潮文庫の高橋健二さんの翻訳によるものです。思い返してみれば、初めて読んだヘッセの作品が「郷愁」でした。この時は、講談社の世界文学全集に収録されていた登張正実さんが翻訳されたものでした。最初は山間の村の厳しい自然描写が延々と続くのが苦痛だった覚えがありますが、いつの間にかその作品世界に引き込まれていました。

その後、新潮文庫や新潮社から発売されていたヘッセ全集に収録されている高橋健二さんの翻訳と出会いました。さらにずっと後になって、臨川書店から発売されたヘルマン・ヘッセ全集に収録されている春山清純さんの翻訳を読んで、今回再び新潮文庫に戻ってきました。

自分自身の中では、高橋健二さんの翻訳が決定版だと思ってきましたが、今回読み返してみたら思っていた以上に古風な翻訳で驚きました。作品はずっと変わらずそこにあり、自分自身も精神的にはそれほど変わっていないつもり^^;だったのですが、歳月は知らない間に人の心を変えていくものだなあと、しみじみした気持ちになりました。

今回の再読での発見は、作中で言及されているアッシジの聖フランチェスコ(本文中では、アシジの聖フランシスとなっていましたが)に、ヘッセが大きな影響を受けていることに気づいたことです。この聖人については、私は昔は何の関心も持っていませんでした。しかし、エクナット・イーシュワランさんの「スローライフでいこう」を何度も読み返しているうちに、いつの間にか気にかかる存在になっていました。

特に心に残るのが、「平和の祈り」という文章です。Wikipediaを読むとこの文章は聖フランチェスコが書いたものではないようですが、誰が書いたものにせよ、その内容は読み返すほどに心に響くものがあります。

その崇高な教えは、私は一生かかっても実践し抜くことはできないでしょうが^^;、疲れた時や傷ついた時、腹立たしい時、この言葉と向き合うことで穏やかで謙虚な気持ちを思い出させてくれます。
話がヘッセの「郷愁」からかなり脱線してしまいましたが、「平和の祈り」と同じく「郷愁」も再読、再々読に耐える優れた作品だと思います。

作品の後半では、老いや死も顔をのぞかせます。若い頃に読んだ時にはよくわかりませんでしたが、それなりに年取ってから後半を読むと、老いを自覚した主人公の心境に共感できるものがありました。
しかし、ヘッセがこの作品を書いたのは、まだ20代後半です。優れた作家の洞察力、想像力の凄さに感服させられました。あらゆる年代の心に響く何かを持っているからこそ、この作品は今でも読み継がれているのでしょうね。(^^)
百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)以前から読破したいと思っていた、G・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」をついに読み切りました!(^^;

これまでに何度かトライしたことがありましたが、そのたびに物語に翻弄されて撃墜されてきました。

今回、読破の突破口となったのは、前に読んだ齋藤孝さんの「本をサクサク読む技術」でした。この本の中で、「百年の孤独」について触れている箇所があり、同じ名前の登場人物が何人も登場したり、過去と未来と現在が同時に語られているのは、作者が意図的に読者を混乱させようとしている、という指摘がありました。

そう思って読んでみたら、初めてこの本の面白さに気づくことができました。物語で語られるのは、南米のとある国にマコンドという村を開拓した、ブエンディア一族の隆盛と滅亡です。そこはまさに、何でもありの世界です。ジプシーの怪しげな錬金術や魔術が、当たり前のように日常と同居しているだけでなく、生者と死者の境界さえ曖昧に感じられます。

そんな世界で繰り広げられる、ブエンディア一族の人々の悲喜こもごも。常軌を逸したバカ騒ぎが繰り広げられたり、夢と現実が交錯するような不思議な感覚。そして隙あらば人間を飲み込もうとする、旺盛な植物の繁茂や昆虫などの繁殖。

そんな全てが溶け合った坩堝のような物語に、いいように翻弄された感じです。
でも、その混沌としたところが、とても魅力的でした。物語の整合性や論理は崩壊していると言ってもいいくらいなのですが、物語が本来持っていた原始的な力強さのようなものを感じました。

この作品がノーベル文学賞を受賞して、20世紀が生んだ物語の豊潤な奇蹟とまで言われる理由が、ようやく理解できました。
煉瓦を運ぶ (新潮クレスト・ブックス)アレクサンダー・マクラウドの「煉瓦を運ぶ」を読み終えました。

著者は、私の大好きな作家アリステア・マクラウドの息子さんです。アリステア・マクラウドは、2014年に惜しくも亡くなられましたが、生涯に発表した作品は短編16作、長編1作というとても寡作な作家です。しかし、その作品の魅力は安易に言葉で語りたくないくらい素晴らしくて、たまたま読んだ短編集「灰色の輝ける贈り物」の最初の短編を読んだ時から、大好きな大好きな作家になりました。(^^)

そんなアリステア・マクラウドの息子さんの本が出たと知って、本屋に駆けつけて本書を購入しました。やはりお父さんと同じような作風なのか、それとも全く違う作風なのか、読み始める前から期待と不安でいっぱいでした。

アレクサンダー・マクラウドの最初の短編集である本書には、7つの作品が収録されています。「ミラクル・マイル」、「親ってものは」、「煉瓦を運ぶ」、「成人初心者I」、「ループ」、「良い子たち」、「三号線」の7つです。
読み始めた最初の印象は、お父さんと比べるとモダンな作風だなあと思いました。そして、ある出来事の瞬間の切り取り方が、とても巧みだと思いました。

その時の登場人物の心理状態への切り込み、何物も見逃さないような緻密な描写。まず、この2つに圧倒されました。時に冷徹とさえ思えるような鋭い描写に、生理的な嫌悪感さえ感じさせられました。でも1作を読み終えると、すぐに次の作品が読んでみたくなりました。
物語は時に「え!?、ここで終わり!?」と唐突に終わってしまうものもありましたが、それが逆に心に残り、その後の登場人物のことが気になりました。

どの作品もそれぞれに味がありますが、個人的には後半の3作「ループ」、「良い子たち」、「三号線」が好みでした。
お父さんと同様、著者もかなりの寡作ぶりのようですので、次の作品集がいつかと考えると気が遠くなりますが^^;、次回作が発売されたら、きっと今回と同じように本屋に駆けつけることになるでしょうね。
あなたを選んでくれるもの (新潮クレスト・ブックス)ミランダ・ジュライさんの「あなたを選んでくれるもの」を読み終えました。

この本は、映画の脚本作りに行き詰まった著者が、フリー・ペーパーに売買広告を出している人の元を訪れて、インタビューさせてもらった内容をまとめたノンフィクションです。ページをめくって驚いたのは、文章だけでなく、多数の写真も掲載されていたことでした。新潮クレスト/シリーズの中では異色の本でしたが、その内容にはとても引きつけられるものがありました。

著者が訪れるのは、「ペニー・セイバー」という小冊子に販売広告を出している人々です。冊子の名前からもうかがえるように、それはちょっとした小銭を節約しようという人向けに、ロサンジェルスで無料で配布されているものです。
そこには、さまざまな品物が紹介されています。脚本を仕上げるという現実から逃避した著者は、そこに書かれた広告の隅から隅まで目を通します。そしてある日、広告を出している人達にインタビューしてみようと思い立つのでした。

もちろん、全ての人がインタビューに応じてくれたわけではありません。しかし、インタビューに応じてくれて、この本に紹介されている誰もが、読者の心に強烈なインパクトを残す何かを持っていました。
それは、性転換しようとしている60代の男性だったり、インドの衣装を販売している夫人、スーツケースを売ろうとしている老婦人、おたまじゃくしを販売している高校生、レパード・キャットを販売している女性、ガレージセールで買った赤の他人のアルバムをたくさん集めているギリシア女性、元犯罪者で今は足にGPS発信器の装着を義務づけられている男性、キューバから移民してきた夫婦、体のあちこちにタトゥーやピアスをしている女性。
そして、著者の映画の中で重要な役割を演じることになる老人との出会いが待っていました。

最初は、単なるバラバラのちょっと個性的な人々に見えた彼らですが、共通点を持っていることに著者は気づきます。
それは、どの人もコンピュータと無縁な生活をしている人達だったのです。現在、これだけコンピュータやネットが発達していると、それと無縁に存在する人々がいることを私たちは忘れがちです。
著者もコンピュータとスマホに依存した生活をしています。しかし、それを通してでは決してつながることのできなかった人々と、今回のこの試みのおかげでつながることができたのでした。

特に印象的なのは、著者の映画に出演することになった老人との出会いです。彼は真面目なペンキ職人として働いてきましたが、金銭的には恵まれておらず、今では生活保護費に頼って暮らしています。生活は楽ではないけれど、彼はやるべきことを淡々と行いながら暮らしています。それは亡くなった犬や猫をきちんと埋葬してあげることだったり、体が不自由な人達の代わりに買い物に行ってあげたり、その時には打たれて死んだ警官から譲り受けた上着を必ず来て出かけたり・・・。

そんな老人との出会いが、停滞していた著者の映画作りを動かしました。そして、その老人を起用した映画は、ついに完成したのでした。しかし、著者が映画の編集を終えた時、老人はすでに亡くなっていました。
著者は残された老人の妻と会い、彼の最期の様子を聞きました。夫を亡くしたばかりの奥さんは、病を抱えながらも意外なくらい元気でした。それは「だって不幸な人間でいることは良くないことだもの」という奥さんの信条があったからでした。

この本を読み終えた今、私の中でいろいろな感情が渦巻いています。それは人生の哀しさだったり、誰も自分だけの人生を生きていることだったり、どん底と思えるようなところにも希望や夢があったり、神様のイタズラなのか思いがけないドラマが待っていることがあったり。
この混沌とした気持ちをもっと整理したいような、あえて散らばったままの今の気持ちを持ち続けることが大切なのかもと思ったり。

でも1つだけ確信しているのは、この本と出会えて本当によかったという気持ちです。それさえも、地球上の多くの人生のほんのわずかな部分でしかないけれど、それに触れることができて、本当によかったと思いました。(^^)