日々の記録

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走れメロス (新潮文庫)太宰治の「走れメロス」を読み終えました。

北村薫さんの作品や三上延さんの「ビブリア古書堂シリーズ」などで太宰治の作品が登場することもあり、このところ太宰治の作品を読もうと思っていましたが、それでもなかなか読み始めることができませんでした。むかし、「人間失格」だけは読んだことがあるのですが、今では全く内容を覚えていないところをみると、面白さや共感を覚えることもなかったのだと思います。

今回ようやく読んだ太宰作品は、「走れメロス」などが収録されている短編集でした。
作中に、著者自身も登場人物のひとりとして現れる「ダス・ゲマイネ」、「満願」、「女生徒」、「富嶽百景」、「駆け込み訴え」、「走れメロス」、「東京八景」、「帰去来」、「故郷」の全9編が収録されています。

「走れメロス」は、主人公のメロスの激情や微妙な心の動きが魅力的でした。子供向けの本やアニメなどで、お話自体は知っていたのに、読んでいてメロスの行動に引きつけられました。
「駆け込み訴え」は、キリストを裏切ったユダが主人公のお話です。ユダのキリストへの愛憎が、印象的な作品でした。

「女生徒」は、北村薫さんの作品でも取り上げられていましたが、ある女生徒の朝から晩までを描いた作品です。軽妙な文体ながら、揺れ動く女の子の心理の青々しさが魅力的な作品でした。

「東京八景」や「帰去来」、「故郷」では、著者自身のことが描かれています。こういった作品を読むと、著者は生活力のない本当にダメダメな人だったんだな〜と感心してしまいます。(^^;
いい年になっても、生活費は実家頼みだったり。いろいろと思い悩んだ末に自殺しようとしても失敗するわ、薬物中毒になって強制的に入院させられるわ。かなりの困ったちゃんでした。

でも文才があったおかげで、自らのダメっぷりを小説として発表してしまうのが凄いですね。このパターン、他にもあったようなと思ったら、吾妻ひでおさんの「失踪日記」でした。(^^;
破滅的な生活も、とことんまで突き詰めると創作の源になるんだなあと感心しました。
こころ (岩波文庫)漱石の作品はいろいろと読んでいるのに、これまでどうしても読み通せなかった「こころ」を、ようやく読み終えました。

学生時代にその一部が授業で取り上げられた時は、今ひとつこの作品の面白さがわかりませんでした。今考えてみると、それは作品を書かれた時代と現代の、人の生き方の違いのようなものが理解できなかったからだと思います。

主人公の「私」は、とある縁から「先生」と呼び尊敬する人と知り合います。先生はかなりの学識がありながらも、それを活かすことなく、相続した財産によって隠遁生活を送っています。私はそれを不思議に思いながらも、その理由を先生は語ろうとはしません。
そして大学を卒業した私は、病気の父がいることもあり、郷里へと帰ります。そして私の父が危篤状態となったところへ、先生からの手紙が届きます。その手紙には、先生がこれまで誰にも語らなかった、友人を裏切って死に追いやったという過去が語られていたのでした。そして明治天皇が崩御して乃木大将が殉死した時、先生もまた死を選びます。

読み終えて気づいたのですが、この作品では主人公をはじめとする登場人物の名前が明らかにされていません。
それ故か、この作品を読んでいると、時に「私」の、時に「先生」のと、それぞれの心の動きに自分と通じるものを発見することがありました。

そして明かされないのは、名前だけではありません。「私」は「先生」からの手紙を読んで、危篤状態の父を残して東京へと向かってしまいますが、「私」のその後がどうなったのか、先生は本当に殉死したのかさえ、読者の想像にゆだねられています。

物語の誰の視点に立っても読みうること。そして、読み終えた後に、様々な想像の余地が残ること。それが、この物語を今でも魅力あるものにしていると思いました。

現代に生きる私としては、明治天皇の崩御→乃木大将の殉死→先生の殉死とつながる心の動きは、やはり理解しがたいものがあります。そして本人の承諾もなしに、先生とお嬢さんの結婚を決めてしまう奥さんも、今同じことをやったら大問題になりそうです。(^^;

でも、そういう今では理解しがたい部分まで含めてが、明治という時代なんだろうなあと思いました。
苦役列車西村賢太さんの芥川賞受賞作、「苦役列車」を読み終えました。

全く興味がない作家さんであり、作品だったのですが、映画化されたと聞いて何となく読んでみました。
この本には2つの短編が収録されています。どちらも主人公は北町貫多ですが、1つ目の「苦役列車」は貫多が中卒で日雇いの港湾労働者をしていた頃の物語、もう1つの「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」は、40代になって作家になっている貫多の様子が描かれています。この貫多という登場人物は、作者と重なる部分が多いそうなので、自伝的な作品みたいです。

「苦役列車」の貫多は、まだ10代の若者です。しかし、父親が性犯罪者だったために、母親と逃げるようにそれまで住んでいた街から離れたことから、彼の運命は大きく変わってしまいました。心を閉ざして荒れた生活をしていた貫多は、中学を卒業すると母親の稼いだ金を持ち逃げして、1人で暮らし始めてしまったのでした。
しかし、中卒の貫多にできる仕事は限られていて、日雇いでその日生きるお金を稼ぐことがやっとです。それに加えて、自堕落な生活を送っている貫多は、日雇いさえも毎日せず、お金がなくなって追い詰められて初めて働き始める始末です。

友人も誰1人としていない貫多でしたが、日雇い仕事に通ううちに専門学生の日下部という知り合いができました。日下部は仕送りだけでは生活していけなくて日雇い仕事をするうちに、そこに通いつめるようになった若者でした。最初は日下部と打ち解けられなかった貫多でしたが、日下部の人なつっこい性格もあって、次第に仲良くなりました。しかし、日下部に女子大生の恋人がいるとわかったあたりから、貫多は自らのプライドの高さに悩まされるようになり、結局日下部ともつきあいが遠のいてしまうのでした。

もう1つの物語では、貫多は作家になっています。しかし売れっ子作家というわけではなく、出版社に原稿を持ち込んで、時折それが雑誌に掲載されることもあるという不安定な身分です。それに加えて、その時彼はぎっくり腰を患っていたのでした。そんな情けない中年の、それでも文学賞の候補になっての期待と、世俗的な名声を求める自らの浅ましさを嘆いたりとが交錯するのでした。

文章はかなり拙い感じで読みにくかったですが、作者自身の体験を綴った物語は妙な説得力と吸引力がありました。若いときから主人公=作者は、かなりどうしようもない人なのですが、それもここまで徹底すると不思議な魅力が感じられました。
コルシア書店の仲間たち (文春文庫)須賀敦子さんの「コルシア書店の仲間たち」を読み終えました。

先に読み終えた同じ著者の「ミラノ 霧の風景」にも登場するコルシア・デイ・セルヴィ書店。この本では、その書店に集まってきたさまざまな人々が描写されていました。「ミラノ 霧の風景」では、ミラノという土地がタイトルになっていたせいか、話題があれこれと移り変わりましたが、この作品では書店に関わった人々という視点で話題が固定しているのが、まとまりを感じさせてよかったです。

書店に集まる人々は、さまざまな人種、性別、年齢の人たちなのに、みんなどこか個性的で魅力的な人たちでした。みんなさまざまな事情で書店と関わるようになったのですが、そんな彼らに1つ共通して感じたのは、どこか哀しさを抱えているように思えたことです。それはもしかして、書店に集まった人たちだけが抱えているものではなく、人間みんなが抱えている哀しみなのかもしれませんが・・・。

そして、もう1つこの作品を読んで感じたのは青春でした。書店は著者にとってだけでなく、書店に関わる多くの人々にとって青春だと感じました。若さ故の傲慢さや浅はかさもあり、年を取った時にふと若き日の懐かしい思い出として思い返さずにはいられない場所。それが著者たちにとっての書店だったように思えました。
ミラノ霧の風景―須賀敦子コレクション (白水Uブックス―エッセイの小径)須賀敦子さんの「ミラノ 霧の風景」を読み終わりました。この本のことは、池澤夏樹さんのエッセイで知りました。以前から気になっていた本でしたので、ようやく読んだ〜という感じでした。

この本は、著者がミラノに在住していた頃の思い出を綴った本です。まだ海外留学が珍しかった時代に、海外へと出て行き、イタリア人の男性と結婚した著者の行動力には驚かされます。題名にはミラノとついていますが、エッセイに出てくるのはミラノだけではなく、イタリア各地が登場します。こういったエッセイの場合、観光的なものになりがちですが、著者の場合はもっと着実な地域の生活に密着したものになっていました。

そしてこの本で圧倒されたのは、次々に出てくる現地の人、人、人です。さまざまな個性を持った人々との思い出が語られていますが、その1人1人がとても魅力的だと思いました。そして人物のことを語っているはずなのに、そこになぜかイタリアという地域性が透けて見えてくるのが不思議でした。
吾輩は猫である (岩波文庫)夏目漱石の「吾輩は猫である」を読み終えました。以前、岩波文庫から出ている新仮名新漢字のものを読んだことがあるのですが、今回読んだのは旧かな旧漢字のものです。多少、最初はとっつきにくかったですが、慣れれば旧かなの方が味わいがあるなあと思うようになりました。

あまりにも有名なこの作品ですが、私の身近ではなぜか通しで読んだことがある人は少ないです。猫の目から人間の世界を見た様子を描写しているのが楽しい作品なので、できれば多くの方に読んで欲しい作品です。

この作品でいいなあと思うのは、猫の飼い主である苦沙弥先生。そして苦沙弥先生の家に集まってくる、個性的な面々。迷亭、寒月、東風などなどが、それぞれ好き勝手なことを言っています。それで何かが変わるわけでもなく、ただ単にくだを巻いているだけのような気がしなくもないのですが、自由に意見を言い合える場であり関係である苦沙弥先生の自宅は、ちょっとしたサロンみたいでいいなあと思います。

以前に読んだ時も思いましたが、この本は語り口がいいですね。言葉のリズムがいいので、知らず知らず次のページ、さらに次のページと読み進んでしまいます。基本的には、内容は与太話なのですが、途中にはっとさせられる一言が混じっていたりするので、油断のできない作品でもあります。

この作品で唯一の不満は、最後の最後で語り手である猫が死んでしまうことです。実際のモデルになった猫がこういう死に方をしたのかもしれませんが、私自身が猫好きなので、物語のラストはいつも胸が痛くなります。(;_;)
乙女の密告赤染晶子さんの芥川賞受賞作、「乙女の密告」を読み終えました。

赤染さんの作品は、以前「うつつ・うつら」という短編集を読みました。その後、芥川賞を受賞されたことは知っていましたが、今まで何となく受賞作を読まずにきてしまいました。前作もそうでしたが、それほど分量がある作品ではなかったので、この機会に読んでみることにしました。

舞台となるのは、京都のとある外国語大学。登場人物は、そこに通う乙女たちとドイツ語教授のバッハマンです。物語の語り手となるのは、乙女の1人・みか子です。みか子たちは、バッハマン教授から言われて「アンネの日記」をドイツ語で暗唱することになりました。教授は厳しい人なので、乙女たちは必死で暗唱する文章を覚えようとします。しかし、みんななかなか全てを暗唱することはできません。

そんな乙女たちの中に、みか子も憧れる麗子がいます。麗子はいつもスピーチコンテストで優勝している優秀な生徒です。しかし、麗子はある時からバッハマン教授との仲を乙女たちから疑われて、乙女たちのグループから浮いた存在になってしまいます。そして、麗子の潔白を確かめようとしたみか子も、また誰かの密告によって乙女たちから距離を置かれてしまうのでした。

作品の雰囲気は、どこかギャグマンガのような非現実感があります。登場人物は全てマンガのキャラクターかお芝居を演じているように思えて、存在感も希薄な感じです。そんな乙女たちを中心に、物語は彼女たちが暗唱しようとしている「アンネの日記」と重なってきます。
そして、どこか浮き世離れしたお話なのに、アンネが感じたユダヤ人以外の人間になりたいという願いと、それでもユダヤ人でい続けたいという重たい気持ちが胸に残ります。
前作の「うつつ・うつら」もそうでしたが、読み終わった後に不思議な気持ちになる作品でした。
うつつ・うつら桜庭一樹さんの本でこの作品のことを知って、何となく手を出してみました。この本には、「初子さん」と表題作「うつつ・うつら」の2編が収録されています。

「初子さん」は、勉強はあまり得意ではないけれど洋裁が得意で、それで生計を立てている初子さんを主人公にした物語でした。一見ほのぼのとした作品なのですが、読み進んで行くと人生のやるせなさや悲しさを凝縮したような重苦しさが感じられました。
本当の貧乏の辛さ、生きることの苦しさ。読み終わった後も、その澱んだ重さが心の中に残るような作品でした。

表題作の「うつつ・うつら」は、京都の舞台で漫談をしているマドモアゼル鶴子を中心にしたお話です。読み始めた時はコメディかと思いましたが、お話が続くにつれて作品世界がじょじょに壊れてゆくのが、とても気持ち悪くて、最後は吐き気すら感じました。
こういう小説もあるのかと驚きはありましたが、読後感はあまりいいものではありませんでした。でも、一度は読んでみることをお勧めしてみたい本かも。
三四郎時々、無性に日本の古典的な作品が読みたくなることがあります。今回、手を出したのは夏目漱石のこの作品でした。

田舎から東京へとやって来た三四郎が、都会で暮らすうちに様々な経験と恋をする様子を淡々と描いた作品なのですが、三四郎が知り合う人物がとても個性的で楽しい作品でした。
お話の後半は、三四郎と美禰子の恋の行方がメインになります。結局、この恋は三四郎の片思いに終わるのですが、ドロドロしたところがなくて青春の苦い思い出の1つとして読めるのがよかったです。

今回、この作品を読んで思ったのは、お話の内容よりも現代よりもゆったりとした時間が流れている心地よさでした。何か用事があれば、徒歩か電車ででかけてゆき、三四郎と故郷の母とのやり取りも手紙が電報です。
現代は交通機関や通信手段が向上して便利になりましたが、便利さと引き替えに失われてしまった世界を見たような気がしました。